うちに来る、エホバの商人の方、Tさん、nelly sachsに似ている。
nelly sachsは好きな詩人だ。とても美しく、恐ろしい詩を書く。人間離れしている。去年、ツェランの詩集の隣に見つけた。
ツェランと親交があったという。知らなかったが、ノーベル賞もとっている。1966年にシュムエル・アグノンと共にノーベル文学賞を受賞したとき、彼女は、アグノンがイスラエルを表し「私はユダヤ人達の悲劇を表す。」と語った。
字が尖っている。『ペンは心臓の揺れを記録する地震計の針』というカフカの言葉を思い出させるようなネリー・ザックスの字、と巻頭に書かれている。
信仰は実際、自分には無理だと思う。世界の終わりが恐らく、怖いけど、本質的には怖くないのだ。
ただ、まるで聖書に出て来る天使のように、家に訪ねて来て、聖書を音読し、Tさんと話すのは興味深い。
Tさんは「もうすぐ世界が終わるので」と、私が世界の終わりについて考えている時に言って来た。
その時田代さんとskypeで、「エホバの人たちは何十年も前からずっとそのことを言っている」と話したのを覚えている。
絶縁体には成れない。しかしアースにも成れない。
ただ、刑事が聞き込みを必ず二人で行うように、天使が二人で来るように、玄関にTさんが現れるのは、そして毎週、私に(ずっと家にいないので手紙をくれる。)「○○の部分を」と言って、聖書を指定してくれるのは、TさんがNelly Sachsに似ている事も有り、面白いのだ。
Tさんがどういう人か、動機か、良く知らないけれども、純粋な信仰、陰謀の無い布教、それ自体は素晴らしいと思う。
しかしこの、自分も含めたシチュエーション全体が好きなので、私はついに「当事者意識」には成れないのだろう 小さな人間である以上、当事者であるには違いないが、こう言った場合。大抵の宗教指導者は全く尊敬する気になれない 法然の弟子親鸞は、浄土真宗。 一遍は時宗 栄西は臨済。「人が集まると必ずお寺さんの話になる」
私はエディパであり、ピンチョンでもある・・ ピンチョンは男性らしいから、エディパに対しては私よりは移入はしないとは思う
ピンチョンも、何処が好きなのかと言ったら、第一には無政府主義的(的。)な所が好きなのだと思う。
何にも価値を置かない、上も下もない、つながる謎めいた言葉、「何か,大きな意味があるのかもしれない。」 啓示は何処にでも現れる。
最高の冒険の感覚と、すべては空虚な遊びに過ぎない自覚
私が何をスべきか?
Tさんは聖書を神の言葉であって、人間の言葉ではないと会う度私に言う。
それにしては書かれてる事が自分を無視していると、私は単純に感じるのだとは思う。
マルケスやクレジオに入り込めないのも、物語の中で「良い」とされている前提が自分には良くないからだろう 期待が出来ないんだ。
デュラスやピンチョンや埴谷雄高は思いも寄らない所へ連れて行ってくれる。そして残酷なまでに知的で、何にも価値を置いていない。そして謎は可視で底なしだ。
と自分は感じる
単に・・・・・・・ ユーモアとタイミングの問題だ。クレジオが「マムのこの話を思い出す度笑ってしまう」と言う時に差し出される話に(今は)笑える感じがしないとか。
自分が寒い山と牧場の中で育ったとか。正反対だ。