現在の更新?
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時間??
満月 2011年
江古田にて2006年
私のi podの二代目が、この時を最後に、私の不注意により、(洗濯してしまい、)壊れてしまった。
それもあり、偶然満月だったのもあるのでアップした。
i pod diaryというので、二年位前から撮ってる
毎日撮ってれば何か発見があるかと思ってたけど、
今の所まだ具体的には何もわかっていない(笑)
ただ、自分がいる場所で、どこでも撮るっていうことなんだと思う、
これをやり始めた間に、地震もあったし、色々な人と会ったし、住む場所も行く場所も違うし、思い出せないような、ただすれ違っただけの人も撮った。オノヨーコも撮った(笑) 沢山の泡の中で植物が成長しているようなイメージ。
まだ全然わかってないから続けたいとは思っています また、ジョナス・メカスはすごい人だと思うけど、やっぱり彫刻しているんだなと 基本的に私はこれでは編集したくないっていうのはあった どっちが労力かっていったら勿論メカスだけど。
でも切れない単位の時間をi podは撮るわけで、それでも
美的な瞬間も映り込んで来る時がある i podの小ささはそれを許してた。それは面白かった
(20111217追記)
美的な瞬間・・勿論それは私によって選択された瞬間であるので、ある程度の感受性に触れる瞬間ではあるわけであり、この時に美的、という非常に曖昧な表現で指したのは多岐に渡る映像的面白さ、動きもそうであるし、イメージそれ自体としての面白さ、展開の面白さなど
なわけであったが、私が撮り始める時、未来に関しては全く知らない。
これは勿論当たり前なことであるが、i podの行為は非常にそれをわかりやすくしたかもしれない。私が撮り始める時、未来に関しては全く知らない。(この感覚をもっと解剖すべきかとも思うが、私はこれまで映像について、過去的な発想、記録的な発想をして来たが、それが覆された。撮り始める時、未来に関して全く知らない私を自覚することが、その未来の展望に対する無知の瀧を、壁を、自覚することが、何か新しい潜在している未来性の展開を、私の映像意識に与えようとしている・・・・・)
これは私の最近考えている宇宙論の形と似ている。
そして一般論ではない、これは私の宇宙論であるが、私の宇宙論では、宇宙は最初は小さな傷から始まった。そして誰かがそれを見つめた。すると第一の物質が溢れ出した。
それ以前は物質は存在しなかった。その物質は、物質以前にあったものと最も近いものであり、物質以前にあったものを伝播する力を持っている。私が最近考えているのは、この第一の物質のことである。そして傷・・・・・・・・私がこんなに傷に執着するのは、私の乙女座が金星だからであろうか?でもこれはもはや私の哲学でさえある・・・・・私にとってすべての始まりは一つの傷だ。一つの傷から全てが始まる。そして私はそれを見ようと試みる。すると何かが流れ始める。それは意識なのか呼吸なのか雨なのか。i podのボタンを押すこともそう。無知の瀧に、壁に、傷を付ける。そこから全てが始まる。
なぜi podが特に私にこの感覚を教えてくれたのか。それは、何でもない、用意していない瞬間を(例えば1人でいる冬の駅のプラットホームとか、例えばただ話してる時とか)、しかも日常的ななにが起こるか約束されていない状態で、写真ではなく持続的に、
撮り、時には全く思いがけないものが映り、でも全ての瞬間はもとから思いがけないものであり、カメラを撮っているという感覚は皆無に等しく、浸透し、
そして公開しない膨大な映像から氷山の一角が現れ、
何を求めるかもわからない手探りの映像行為の中で
そのような様々な型にはまらない、彫刻もしない、映像行為の中で、何かが起こったのだのだろう。
それから少々飛躍し、何故傷という表現なのかということに関してだが、
私は最早ここでは書き切れない程、幼い頃から傷一般に対しての興味が計り知れなかった。そしてそれは個人的には人生観というよりは世界観とか、哲学性に結びついていた。
(でも、私にとって、これだけは書きたいが、傷痕は傷つけた/傷つけられた証のみではなく、戦った(他者でなくとも。物質でなくとも。)証として、考えたい、これが私の、傷痕に対してのスタンスだ。
例えばタイタスのラヴィニアのような、救いの無い状態でさえ、私は何らかの応答が欲しいと感じた
それが、1人で池に入るラヴィニアの髪に触れる風であり、それを見つめることから美を見出すことそれ自体の微弱な応答であると思った。
実際のタイタスは、そんな場面は出て来ないし、ラヴィニアも全く救われない。
でも私はラヴィニア全体について、考えたかった。
勿論、一つの傷によってすべては始まり、それは傷つけられた。苦痛は生まれた、だけど、同時に戦った。戦いという言葉が狭い意味しかもてないなら、生きた、そして私は、現実問題ではラザロにするようには出来ないけれど、何かを選んだり、描いたり記述しようとする際に、『関門』において、解決しなければならない問題として、これは貫きたい。)
そしてこれらの事柄は実は一つ目の映像で私達が話題にしている、トラン・アン・ユンの『I come with the rain』という映画を観て、
一つの確信が持てたことが、開始となっている。
実は、私が3つ前くらいの日記で、ピンク色の男の子の画像を出しているけど、あれは、
誰にも言われたことないが、トラン・アン・ユンの「シクロ」の映像を
コラージュしたものだ。
「シクロ」自体は好きな映画ではなかったけれど、でも、「好きじゃない」と思う中でも、何故だが強烈にシンパシーを感じる部分があった。
『唯一本物に見えた』、そのシーンが、具体的には言わない方がいいと思うが、どちらも、傷に関するシーン、
しかも(今考えると)その傷を、抱きしめたり、癒そうとしているシーンだった。
私はシクロ全体は好きではないが、いくつかのシーンは強烈に印象に残り、このように、コラージュさえした。(もう一つ、私が(6年前にアップしたもので、同じく誰にも言われたことないが・・つまり、非常に誰かに言われたかったわけだが・・・・・)似たような動機でコラージュした映画は、これは映画自体も好きだけれど、新藤兼人監督の『原爆の子』・・・ この日記の三つ目のビデオ(映画)の冒頭に出て来るのは、ジョン・カサベテスの『オープニングナイト』(これは大好きな映画)です。その頃あまりにもカサベテスばかり観ていたので、その観ている画面を撮ったのだと思う)
そしてI come with the rainを観て、シクロの時の強烈なシンパシーが、もっと明確な(多少滑稽ではあるが)形で意識出来たと感じた。
現在、この映画は抗争中とのことだが、トラン・アン・ユンの、傷への意識は、私にはとても重要だ。
傷への、そしてあらゆる感情的表現(その頂点としての快楽と苦痛の表情)への意識は、とても重要な発見だった。
傷は契機であり、現れたものであり、でも、現れた後では止められない、現れざるを得ない(運命論ではなく、)ものだった。
傷付いて、血が流れ、苦しみ、流れ過ぎて死ぬ。
どれかの段階でそれを止めようとする。
止めようとする人は血にまみれる。
傷付いた人間は意識を失っている。
止めようとする人は必死だ、もしくは泣いている。
傷は現れた。
私は見ている。
これはどこの瞬間なのだろうか?
勿論トラン・アン・ユンには色々な魅力があると思うし、I come with the rainは全然傑作ではないと思います。冒頭から、イマジナリーラインとか大丈夫なのかなとさえ思う編集が出て来るし・・・
ただ、とても好きな映画です。ブラインドネスも、迷子も、(迷子はいい映画だと思いますが)好きな映画です。
未来の映画です。