BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Sunday, 28 October 2012

台湾の映画が何故か好き(2012.11.10 追記訂正)



こないだ、アテネでキム・ギヨンの「玄界灘は知っている」を観た。
私はこれまで、現代韓国映画に好きなものも監督も無かった。それに対して、台湾の映画には、途轍も無く惹かれる部分があり、沖縄の映画(「ウンタマギルー」)もまた似ている形で好きだと思い、現代日本映画も現代中国映画も好きではないので、確かに国や地域ごとに何らかの特色、傾向はあるのだろうと感じていた。

台湾映画と沖縄映画には、明らかに群を抜いてスケールが大きい上にとても美しく独自性に溢れた(映画の歴史を更新するような)、(とともに途轍も無く冷めた視点と、幸福感のある)作品が存在している印象を受けていた。

では昔の韓国映画はどうなのだろうという疑問はあったのだけど、キムギヨンのこの映画は戦争中の日本が舞台で、入隊した朝鮮留学生の立場での、困難さを抱えて進みながら、映画は最後には圧倒的な所に辿り着いていた。途中、フィルムの問題によって、映像や音声が五分や10分ほど、欠落している場面があった。
場内では、映像が無いときには真っ暗な字幕に浮かんでは消えて行く字幕と、空間に響く、登場人物の声だけを、
音声が無いときは、スクリーンに浮き上がる登場人物の動きや、表情、物事だけを、皆、じっと観ていた。
キム・ギヨンの人物たちには息づかいの動きがあった。肩を上下させる。カメラの動きは明確でダイナミックだった。
キム・ギヨンの映画を見ている間、映画館では何度か笑いが起きた。
ヒロインの秀子は日本人で、主人公と恋に落ち、反対にあいながらも結婚する。
秀子は本を読んでおり、それによるのか、ロマンティックなシーンなのに出て来るロジカルな発言が面白く、それらは笑いを誘うだけではなくて、時には時代的な制約に対して、宇宙的な真理や視野を訴えかけることもあり、感動的だった。好奇心旺盛で、純真で、控えめだけど勇気があり、今まで見た色々な女性像の中でもとても印象的で好きなヒロインだった。この映画は観ていると突然開ける瞬間があって、前半からは思っても見ないような所に最後には到達した。

結論として、キムギヨンの映画を映画館で観た体験は本当に大好きで素晴しかった。もう、しばらく前に観た映画だけれど、今でも感覚が残っている。つまりは昔の韓国の映画の中の一つは特筆したいくらい、好きだった。

思うに、台湾や沖縄の映画のスケール感と私自身が感じてしまうものは、私自身とのこの映画に出て来る顔や、風景の距離、(近い)と、これらの映画が向き合い、投影し投影されている歴史の濃さなのだとは思う。
単に女の子が制服を着て、白いカーテンが風に揺れる明るい部屋にいてこちらをふと見ているというだけで、何故こんなに感動するのだろうかというのは、日本で同じことがあったって、これほどまでには感動しない気がするか、意味が売り、売られ尽くしたものに変わってしまう。
映画の中にある何らかの重し、それから、(知っている限りでの)台湾映画の光の透明感といったらない。
加工出来ない光線。

息子がナイフか何かで死ぬぞだとか、言い放った後、
ひどく怒った母が思わず投げた皿によってちょっとだけ切れた足の傷から出る血と痛み
(*実際には、鶏を食べる為に追い掛け回してる息子に、母が、「殺すだって?!」と包丁を投げ、それによって、息子の足首に、ちょっとした傷が出来て、それにさえすごく驚くというシーンでした)

それから「放送による声の印象」と、ウィルス(SF-世界的)性と、信仰感が好きなんだけれど、その辺をゆかさんに以前聞いた所、
声というのは、台湾では二言語で必ず音声放送があるので、それだからではという話になった。
台湾の映画は、自分のサイズに、世界のサイズを収縮することがない。
世界のサイズは世界のサイズのままだから、自分との隙間に、胸を空虚にさせるような、光が入り込むのだろうか?







追記

また、ミノルタの古い奴を買おうと思う。それから、前の日記で言いたかったのは、キム・ギヨンの映画を観て、フィルムということに感動したという事だったのですが、(上映はデジタルだったけど)肝心の所が抜けて、台湾映画礼賛になっていた・・・。
あと、日本映画でも、石井隆監督や、吉田喜重監督は今でも好きだけど。

でも台湾の映画の、具体的に言えば例えば、最新の映画ファンにとって古いかどうかはわからないけど、エドワードヤン、ツァイミンリャン、ホウシャオシェン(リーカンションの映画「迷子」もとても好きですが)が、これらのスケールの作品を撮った人たちが、同じ国の映画監督であるということに、かなり驚くのです。
日本の映画や、韓国の映画や、中国でも(ワンビンは恥ずかしながら未見なので、申し訳ないのですが)いいと言われていても、「独創性がある」とか、「これはすごい」とかとは思ったことがなかった。好きだと思う部分はあるけれど、
作っている人の『映画の捉え方』はなんかの焼き直しという感じがする。
映画の格という意味でも、独自性という意味でも、台湾の前述した監督達の映画とは違う。そしてそれは予算とか作風じゃなくてもっと全然別の問題、捉え方の問題という感じがする。もっと言えば、ジャジャンクーの映画より、ずっとツァイミンリャンの方が(リスキーで、〜な分?)本質的だと思う。「比べられない」と思う人もいると思うけれど、主観的にはそうなのです。シンプル過ぎるからなんだろうか?誰かを引っ張って来て並べたりが出来ない。

台湾の映画の圧倒的さ、全面的さ、国、とかが、無いような、全く別の人類的な指標や視野さえ感じてしまう。無国籍的と言う簡単な言葉を使って良いのかよくわからないけれど それは前述したように自分もアジア人で、彼らもアジア人で、顔や文化が似ているから、近く感じるからかえって驚くというのもあるかもしれないし、そういった近さと遠さが、無いものが、失うものが、有るものが、自分には刺さるのかもしれない。まるで自分自身の周りの出来事のように観てしまっているからなのだろうか・・・。
余りにも無防備で、楽園的で・・・、現実的・・・・・・・・・

あまり分析せず、出してしまって申し訳ないけれど、ずっと持っている感覚ではあった。
台湾だけは本当に果てしない感じがしてしまう。国別では世界一、現代では果てしないのではないだろうか。
何なのだろうか?
自問自答みたいになってしまって申し訳ないけれど。

この日記、あとで消すかもしれない...。
自分の映画観です。





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