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Barry Doupé web site
バリーの映画を初めて見た時のことを思い出してみる、それは『Pony tail』という作品だった、映画が始まった途端、顔の穴から黒い液体を流した金髪の女の肖像写真が歪み、ラジオから謎の言葉が流れて時空が抵抗しながら歪み・・・これは、バスに乗っているある女の映画だということがわかり・・その女は片目は赤、片目は黄色い眼鏡をかけて何かを追憶し・・・・・映画が進むにつれ、少なくない観客が会場から出て行った。私にはそれが信じられなかった。興奮していた。
Pony tail 1 Watch a Clip 01
Pony tail 2 Watch a Clip 02
バリー自身が作っているというサウンド。英語を機械的に翻訳したまま発声させている壊れた台詞。(Pony Tailはドイツ語、Colorsは日本語。)更に字幕。そして映像、昔のCG魔法のようなテクスチャー。繰り広げられるのは・・・・・普段は人間の望むように動いているCG界の住人たち、もしくは華麗なCGには成れなかった、壊れたCGたちのドラマ・・・彼らが直面しているのは、喪失、孤独、欲望・・愛。人間には普段は決して見せないような・・・・・無政府状態と言えばいいのだろうか・・・CG界の。
それらは最初はただ笑えるのだけど、そのうち苦く、悲しく、美しくなり・・・。これまで人間が何度も問いかけてきたことを彼らも問いかけている。むしろもっとずっと真剣に。ショックを受けた。
彼の世界は、解明するもなにも「そのまま」、なのだろうけど、私はインタビューや普段のやりとりを通して、あの世界が一体何なのか、・・・わかるようなわからないような感覚を味わって来た。
大体毎回バリーとは映画の話をする。それを聞くたびに彼の作品との関係性が常々面白いと思って来たので、今回、デュラスの上映会もあるし、それについて自分視点で少し書きたい。(バリーには了承してもらった。)
マルグリット・デュラスについて(1)
というのは、彼女が泣いて、涙が出て来ても、本人がそれを感じないでいつもこう言っているんだから、
「光線で目が痛いわ、モンスーンの時の光線で」。
この上映に関連してメールをする中で、同じく上映が企画されているマルグリット・デュラスの話になった。バリーとは既にピナ・バウシュの話はして、彼の映画とピナ・バウシュの作品は、なんだかわからないけど、似ているしわかるなぁと思っていた。(この「なんだかわからないけど」は言おうとすればいくつか言えると思うけれど、女性とか徹底性とか、苦さとか、生きること・・・それどころか、私がバリーの映画に感動する部分とピナのダンスに感動する部分は、少なからず、共通していると思う。でも、間違いなく説明するのが今は難しいので、なんだかわからないけど、にとりあえずしておきたい)
そして、私はバリーはデュラスが好きなのではないかと、聞いてみた。(これも何か、そんな感覚があった。)するとデュラス自身の直接的な監督作は観た事ないけど、(デュラス原作の映画版)『ラマン』や、(脚本を担当した、)アラン・レネの『ヒロシマモナムール(24時間の情事)』は好きだ、デュラスは面白そうだと言っていた。
私は映画の『ラマン』は観た事がなくて、というのも、デュラス自身があの映画を気に入っていないという話はあちこちで見てたし、実際スクリーンショットやトレイラーを見る限りは、観ていられないくらい、デュラスが小説で言いたいこととは別のことにだけ(センセーショナルなエロティシズムにだけ)、焦点が当たっていそうな感じがしていて、だからデュラスが気に入っていない、と言うのもわかる感じがしたし、むしろ観たくないというのがあった。
それを言うと、バリーはあの映画の評判が悪いことは知っているけれど、照明が好きだし、『愛のコリーダ』のように、人が世界を経験する際の接触面として、性の存在を認め、描いている所が好きだと言っていた。
(この意見は個人的にとても面白く、あの映画自体の感じがつかめたような気もして、確かに別物ということはもうわかっているし、・・・みてみようと思っている。)
そして昨日ちょうど、バリーからデュラスのインディア・ソングを見たというメールが届いた。
『インディアソングを観た。なんて素晴しい映画。僕はこのダイアログが好きだった。「囲いは、レプラ患者を思い出させるの。...空気は引き裂かれていた...僕の声は調子外れにきこえる...僕の声がきこえますか?...彼らに言ってやってくれ。叫ばれているのは、愛だと..」それから、構造。彼女のナレーションと映像の関係は、とても心地よい。それにこの映画は、自分が占める空間を確信してる、自意識を全く感じない、なのに何故か僕らはそれを見ることができる、そして映画は、僕らが見ていることを知っている。だけどその関係は良くわかる様なやり方でじゃない。とても斬新だ。』
『「見られていることを知らない」、これは彼女の本の中にまさに出て来るフレーズなんです。あなたと反対のことを言っているようだけど、同じことを言っていると思う。(三つの部屋がある。観客/ステージ/もっと遠い別の何処か)。
今日、本を読みました。デュラスと『ラマン』の監督との対話です。
アノー(監督)「・・・映画における叙述(ナレーション)はイメージによって形成される・・・」
デュラス「違う!言葉で形成されるんです。」
アノー「マルグリット、その点は同意できません。」
デュラス「あんたは、なんにもわかっちゃいない。映画というのは、言葉なんですよ!」
このやり取りは、私には少し面白い、デュラスは何でも断定的に言う所のある人だから。だけど彼女の映画と本を読んだ後はよくわかる。彼女の言葉は、絶対的な映像で満ちている(と、つながっている、と言い換えたい)。誰も知らない光景、もうない思い出、見えない、全く別の場所・・・彼女はいつも、自我を超えて行くような不可能な映像を求めている。彼女の心にある(見る、と言い換えたい。)映像は、絶対的だから、彼女はそう言ったのだと思います。そして声、聴き取れない様なものから。無数の。誰のものかわからない。
そして、これらのことは、よく私はあなたの映画にも感じるものがあります。だからあなたの感想はとても興味深い。』
(映画の叙述は映像ではない、言葉によるものだ、これが数年前に初めて読んだ時はとてもわかるような気がした。今読むと、更に一段この言葉から読み取れるような気がすると少し考えてしまった。バリーに言ったこととは(映像の絶対性とは)、別の意味で。または良くある、モンタージュ的な意味でもない。映画は言葉・・)
(映画の叙述は映像ではない、言葉によるものだ、これが数年前に初めて読んだ時はとてもわかるような気がした。今読むと、更に一段この言葉から読み取れるような気がすると少し考えてしまった。バリーに言ったこととは(映像の絶対性とは)、別の意味で。または良くある、モンタージュ的な意味でもない。映画は言葉・・)
『インディア・ソング』は、二十歳くらいの時に観たように思います。夜中に観て、観終わってから、もう一度観ました。冒頭から、この陽と、狂った女乞食の笑い声に、激しく引き込まれた。バリーは、心地よい、と言ったけど、私はこの映画は映画の中で一番凄まじいと思う。勿論心地よい。私は、友人この映画を説明する時は、「自分が死んだらこの映画を流して欲しい位の映画」と度々言う。そういった心地よさがあると思う。
久しぶりにこの映画を観て、凄い浸食を感じた。この声の浸食の様子。この映画は浸るべきところで浸ることを許さない。挑んで来る。(「わたしの場合、生が拒否によって表現されるでしょう。拒否したり、妨害に出会ったりすればするほど、生命感が強くなる」)映像に声を、さらに音を時には絶望のシーンに愉快な音を重ね。静寂は更に無限に重ねられている。一方で、この映画は、すさまじく果てしない、懐かしくて泣きそうなほど、全てが止まったところへ連れて行く。このシーンで出て来る女乞食は、小説『ラホールの副領事』の冒頭でも出て来る。
グザビエル・ゴーチェーそうだ、あの女乞食のことも話しておかなきゃあいけませんね。どう言う人間かはよくわからないけど・・・・・アンヌ=マリー・ストレッテルと肩を並べられるくらい、魅力のある人物で、あなたは同一女性なんだとおっしゃいましたね。
マルグリット・デュラスー彼女は、二十年前にすでに『太平洋の防波堤』に出て来たことがあるのよ。
X・Gーええ
M・Dーあなたが言ったことは、言葉でとても表しにくいことなのよ。あの女乞食は、地名標識のととのった、行程の非常に明確な彷徨をする、タイ国を横切って。まずラオスから始まって、カンボジア、タイ、ビルマと進んで行く。
X・Gー何千キロにもなりますね。
M・Dー三、四千キロ、もっとになるかもしれない。ビルマの河を下って–-あの河はなんて言ったっけ?—––ラングーンを流れてるの—––イラワジ河だわ、彼女はトンレ・サップ湖から来たのよ。実際『副領事』の中では、彼女をカルダモン台地(カンボジア南部の台地)のあたりまで遡らせているわ。
X・Gー終点は何なんです?どこまで行けば・・・・・・
M・Dーカルカッタで沈むまでよ。沈んで、カルカッタの中に溶けてしまうの。わたしは、「沈む」という言葉が・・・・・誤解されはしないか、とても心配なの。副領事が癩病に熱中するのと同じように、彼女はカルカッタに熱中するのよ。
M・Dーアンヌ=マリー・ストレッテルが自分に熱中するのと同じように、あの女乞食は・・・・・飢え、苦しみ、に熱中するのよ。それらすべてが、唯ひとつの塊となって終るの。
X・Gーええ、
M・Dーアンヌ=マリー・ストレッテルは、十七年前から、アジアのいろんな首都を遍歴してるでしょ。
X・Gーあなた流にいうと、姿を消すための指示を見つけるまでね。
M・Dーそのとおりよ。
X・Gーそして、彼女が完全に消えてしまった時、そこでは・・・・・・
M・Dー・・・・・女乞食の方は、日常の喜びにひたっている。
X・Gーええ、でも彼女も、おしまいですね。
M・Dー完全におしまいね。
X・Gー彼女は、その喪失で生きて行くわけですね。
M・Dーその喪失で生きて行く(沈黙)完全に対等ね。
X・Gーええ。
M・Dーアンヌ=マリー・ストレッテルの消滅と女乞食の残存。この二つが溶け合っているのよ。
X・Gーええ、そこは覚えてます。ずいぶんショックを受けましたけど、あそこのところで言われていることはよくわかるんです。
ーでもほかのことも読まなきゃあ、ほかのことも聞かなきゃあだめよ。
ーでもあそこでは、言われてることは実によくわかるんです。
ーそう。
ーロル・V・ステーンまでも、たしか彼女だと思うんですけど、神にさからうことを何か言いますね。
ーそうだった? わたしはもう覚えてないわ。
ーちょっと待って下さい・・・・・彼女が・・・病気になるところがありますね・・・とにかく彼女の病気について、こんなことが言われる、「神の胎内で動く」・・・なんかそんなことです。どうしてその台詞が思い出せないのかしら?
ーああそれ。それならたしかに覚えがあるわ。
ー一節の終わり、たしか彼女が病気にかかってる節全体の終わりで、その後、彼女の姿が・・・変わって、結婚してるところが出て来て、待ってください、彼女の怒り、拒否が全面的に出て・・・彼女はもう何も見ず、何も聞かなくなる。そしてこの文が出てくる、「・・・・・・神の胎内で動く」。はっきりしないけど、何かそんなことでした。あそこで、それをとても異様に感じたんです.あそこのところは、とてもよくわかりましたし、ごく素直に受け入れられました。
ーだけど、副領事の怒りや・・・アンヌ=マリー・ストレッテルの、潜在的で、コンスタントな苦悩は何から浮き出て来るのかしら?(沈黙)経験不可能なものからね。
ーええ。
ーそして愛からね。
ーええ。それは宗教的ではない。
ー愛が?
ーええ。
ーたしかにそうですね、あなたの本には、感情のかけらもないのに。あれはいろんな感情なんてものじゃない
ー・・・・・・わたしは彼らに言ってやったわ。「それはほんとうのことじゃない。何かをあなたがたは知っているのだ」
ーええ。
ーたとえ、それが過去に投げ捨てられているにしても。みんな知ってるのよ。知られてしまうことなのよ。みんなきまって「知らない」と言うでしょう。それは無関心だからよ。だけど、どこかで知られてしまうことなのよ。
ーええ。
ーそれでなければ、レセプションに集まった白人たち、レセプションの白人女たちが、あんなふうにアンヌ=マリー・ストレッテルに好奇心をそそられるはずがないもの。彼女たちが言うでしょう、「あの悲痛な微笑、あの背後に何が隠されているのかしら?彼女は何をしてるのかしら?」彼女たちはお互いに問いかけ合っているのよ。
ーええ。
ーあの女性という中継をとおして。彼女たちは直接インドが目に見えない。そこで、副領事やラホールのバルコニー、当地では女の涙という橋や中継をとおして、インドを見るのよ。書くということは。そういう役を果たすのよ。おそらくその中継、頭上にかけられた橋となるのよ。
語る女たち
田中倫郎訳
デュラスについてはまた上映後、つづく
海がきこえる
バリーにこれまで影響されて、ダグラス・サーク、シャブロルなどの作品を観た。数ヶ月前には、バンクーバーでジブリの回顧展があったらしく、一つの映画を紹介してくれた。
「...ぼくがとりあえず観たのは、天空の城ラピュタ、風の谷のナウシカ、そして海がきこえる。海がきこえるはすごくよかった。日本の高校が舞台で、軽い簡単なプロットと、美しい映像で語られる。他の作品に比べて軽くてスケールは小さいけど、登場人物の間の関係性はぼくには一番面白く思えた。これからもっと観てみるつもり。静かな瞬間を恐れていない作品が観れたらと期待してる。」
「...ぼくがとりあえず観たのは、天空の城ラピュタ、風の谷のナウシカ、そして海がきこえる。海がきこえるはすごくよかった。日本の高校が舞台で、軽い簡単なプロットと、美しい映像で語られる。他の作品に比べて軽くてスケールは小さいけど、登場人物の間の関係性はぼくには一番面白く思えた。これからもっと観てみるつもり。静かな瞬間を恐れていない作品が観れたらと期待してる。」
『海がきこえる』は、私は多分小学生くらいからテレビでも流れていて、実際は見ず、感じだけは知ってる様な気になっていた。高校時代の青春の恋愛映画・・・。その頃はそれは大人の問題だった。そのせいかなんだか知らないけど恥ずかしいような気持ちにさせられる作品で、大人になってもこれまで観る勇気は出なかった。だが特別に引っ掛かる作品であったのは確かだった。直視出来ない映画、と言おうか。
バリーにもそう言い、(意味がわからなかったと思うけど)だけどあなたがそう言うなら見るつもりだ、と言った。実際、バリーが好きだと言うのも納得できた。
・・ながらもやはり見る気が起きず、見なかった。が、最近バリーとこの回のメールのやりとりで一念発起し、見た。
海がきこえる、すばらしかった。
本当にモヤモヤする作品。素晴しい寸止め感。説明のなさ。
最近映画『ブラインドネス』が自分にとっては2000年代ベストだ、と言う意味について書こうかとも思っていたけど。(映画の奥行き)
結局、一時間や二時間で、全てを語りきれるわけなんかない。「終わってほしくない映画」が、私にとっては一番はじめの欲望に近い映画で、海がきこえるはそうだった。「今も登場人物たちがどこかにいるんだろう」「元気にしているのだろうか」などと思わず考えて、もう会えないことが様子がわからないことが、切なくて仕方なくなるような映画。
バリーはインタビューでも、二次制作のことについて言及していた。二次制作的な衝動って、衝動自体は、そのまま私の場合は映画や何かを自分で書いたりして世界を作ることの、憧れの起点でもある気がする。その対象が現実でも誰かがすでに見つけた世界でも。だって、どう考えても、寂し過ぎると思う。だからブラインドネスも、ブラインドネス10(part 2でもpart3でも4でも5でもなく)の企画があるなら監督したい!と当時言ったのかも。
海がきこえるは、実際、海が映画の中に出て来た印象があまり無かった。でも海辺の街だという感じは何となくわかる。
吉祥寺のプラットホームで始まり高知を舞台にした高校時代の話が語られ、吉祥寺で終わる。だけど観た後、海としかいえないものが果てしなく波及してくる。
ちなみに、私の方は、最近感動した映画として、シャーリーズ・セロンが体当たり演技でオスカーをとった、娼婦、シリアルキラー、アイリーンをモデルにした、『モンスター』を挙げた。
この映画も、連続12回ドラマでも見たいくらいのものだった。
「とてもピュアで、滑稽な部分や、ロマンティックな部分のある映画」。
でも私はこんなことは、普段誰にも言わないと思った。きっとバリーはわかってくれると思ったのだ・・・
再現ドラマとしての映画。
シャーリーズ・セロンのトレース。
i always wanted to be in movies..life is funny but its also strange i think it can be so different anything
「ビデオショップに行く時は、ぼくはいつも何か驚きを探してる...。...『モンスター』。覚えてる。予備知識がなく、映画館で観た。なんて素晴しい驚きだったろう。ロビンフッド的寓話。売春とラブストーリーで覆われた。」
ある種、病なのかもしれないけれど、こういった終わらない映画には本当にいつまでも引っ張られてしまい、ついには自分自身で何かを作り出さざるを得なくなってくる。『海がきこえる』や、『モンスター』は、でも、冷静に考えれば「完璧な」映画ではないということはわかっている。海がきこえるは、だからこそその空白に海がきこえてくる。そしてモンスターはそれしかない、現実につながっているのだから
他に、是枝監督の『誰も知らない』や、『ワンダフルライフ』の話をした。あとカトリーヌ・ブレイヤが面白いらしい。私からはフィリップ・グランドリューの話をした。(フィリップ・グランドリューも、新作上映予定らしい。)
・・バリーの映画に、これまでバリーが好きだと言った映画は全部どこか似ている。(それでいえば、デュラスの映画は好きかとも思うけど、今思うと似ていない感じがする。あれはいろんな感情なんてものじゃない.
映画の方のラマンはだから、上手い具合に似ているのかもしれない。)
これらの人間たちの官能的なまでの叙情性を、"メロドラマ"=人間の感情を煽るものであるというドラマを、近代の映画を煮詰めたもの→を壊して、彼は散りばめる。もしくはもっと根本的に(水ではなく地面的な意味で)育ててるものの一つでさえあるのだと思う。彼の映画はとても世界に対してロマンティックで、彼のCG界の登場人物たちは現実に直面していて、そしてそれが、人間界とバリーの垣間見せるCG界をつないでいる。相当想定外に、裏返されてはいるのだが。
いずれにせよ、Colorsは面白いです。可能性にとても挑戦している。ただ私はPony tailの方がもっと好きではあったから、
今回どういった形で上映するかわからないけど(そもそも音声が、自動翻訳された日本語で、日本が舞台なので、英語字幕とかもそのままだろうか)Colorsを見返してみて、気づきがあることを楽しみにしている。
私自身の近況はというと、今、この一年に撮った写真をまとめてプリントしている。大体が未公開のものです。A3サイズで、それは『アセンション・リバー』という架空の映画をテーマにしたシリーズですが、単体で何枚か、ウェブサイトに販売ページも作るつもりです。
その他、映画やEK-Staseのことも色々やっているので、近々お知らせします。
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