BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Sunday 18 December 2011

前回の日記の補足:英雄について



//・・・前回書いた日記で気になった点があったのですが、特に一つだけ説明を加えたいと思ったのが、戦うということについてと、それに対する応答が欲しいということについて
誤解され易い書き方で、また、実感としては自分の中に一緒にある二つの流れを交流させた書き方の気がしたので、追って考えてみた
つまり、一つ目は、讃えたい、という自分の人間としての意志があり、
二つ目に、それとは別の、非人称的(主語の無い)ー感情も記憶も(それだけではなく色々なものが)ないー視線があり、
しかしその視線にも、応答(  )を求めるし、
また、自分自身の、何かを選択する意義としても、英雄を求める
被害者という言葉を私は過去に何回か使って来たが、被害者の中にも、被害者一人の中に、英雄的行為を探し求める訳です
これは仕立て上げるということなのかもしれないとは思う。ただそこでは選択がある。


危険な書き方かもしれないので、補助的に、何か引こうと思うけど、


悲劇・・・・・・神託・・・・・・・・

今までに、最も自分のこの英雄像が出てる映画をと、今考えたけど、
例えていうなら、少し、小津安二郎の「長屋紳士録」の感覚は入っている気がします。
でもこれはかなり更に混乱させるような気がします・・・・・ちょっと人情のようなものが入っていると思うので・・・・・・カナダの「フローズンリバー」とか、カサベテスのグロリアとかはまた別に誤解を招きそう 何かはあると思うけど思い出せない

要は、私は、英雄には興味ない、傷に興味があるということに戻る気がします



自分が作る際は、常にこのことが起源となっています。
まず傷がある。誰かがそれを見つめる。
それから、何かが流れ出す。それは、第一の物質であり、物質以前のものを伝播する力を持っている。
映画はそれから出来ている

余談ですが、先日武田さんとお話させて頂いた時に質問させて頂いたのですが、デュラスの文章の中によく出て来る、「〜だろう」という語尾が、気になっていて、いいなと思っていたんですね。そしたら、他のフランス語の本(ドゥルーズ、ベルクソン)にも特徴的に出て来たから、フランス語特有のものなのか?と。そのことについては長くなるのだが、フランス語は明晰な言語だと言われているし、少しでも曖昧なことは曖昧にするのではないか、という結論が出た。その「〜だろう」という語尾に私が感じていたのは、この、主語がない視線の感じ、何か全然別の視線が世界に行き渡ってる感じです。フーコー:デュラスは実のところ盲目なんだって言ったけど、それは実に言い得てると思う。そう、彼女は盲目なんだよ。それもほとんど一般的に言う物理的な意味でね。〜彼女が見る事が出来るのは、触覚によってだと言っていいと思う。〜触れたものが視覚的な像を生み出すんだよ。僕は、彼女の創作の原動力となっているのがこの本源的な失明じゃないかと考えたくなるね。
シクスス :そして、それこそが彼女のあの計り知れない部分でもあるわけよ。(フーコー全集のデュラスについての対談から。) それは口述筆記とかによるのかもしれないが・・・この辺はもう少し追ってみたい)

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