BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa
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Friday, 20 May 2011

ピナ・バウシュ「私と踊って」

ピナ http://yoknapatofa.blogspot.com/2010/06/blog-post_27.html


私が興味があるのは、人がどう動くかではなく、何が人を動かすかということ -ピナ・バウシュ








2008年、偶然インターネットでピナのことを検索し、ちょうど来日前だということを知って『vollmondフルムーン』のチケットを買った。それ以来、あの感覚を、ほとんど毎日反芻している。

 ダンサー達は手加減なんかしていなかった。客がいるかいないかなんて、関係ないように見えた。さらに、目の前のステージで起こっていることなのに、果てしない奥行きがそこには存在していた。私は攻撃を受けていた!私は仲間はずれにされていた。私は動けない肉体を持ったまま、その壮絶に美しい生命の瞬間の連続爆発を見ていた。とにかく、物凄くぐったりしたことだけは覚えている。全身で衝撃を受けて、鳥肌が立ち、涙が溢れた。これが芸術が与えられるほんとうの感動というものなんだ、と思った。ピナ・バウシュのダンスと比べたら、今まで私が感じて来た感動とは、なんだっただろう?私の心で渦巻きはしたが、私の体を動かそうとはしなかった。帰ってからすぐインターネットを駆使して使われていたサウンドをすべて集めた。2009年は、それを聴きながら、ウ゛ッパタールを待った一年と言っても過言ではなかった。「ピナが死んじゃった」というメールを友達から貰った時、私は新宿の交差点にいた!その時の街の光景を、個人的な、歴史的事実として覚えている。フルムーンを観終わって新宿に出た時と同じ。何も変わらない。日本。ピナ・バウシュのステージの上で繰り広げられていた生命の炸裂が、誰しも産まれながらに持っているものだとしたら、この国のこの世界の閉塞感は、一体何処に正当性を持って私を縛るのだろう?(進化論が正しいとするなら)ジェネシスの森で遊びが始まった時点から、文明が始まり、文明が終わり、生き残った少数が、先祖たちが大切に崇めていたテクノロジーを喪失したことなどてんで気にもとめないで歴史の消失点の誰も見ていない所でなされる、その祀りまで、人類総体の思い出のような、大きな流れがそこにはあった。
 私はそれを生来持っている。私は昔は持っていたかもしれない、だけどすぐに無くし、今では完全にわすれている。私は完全に生命に対して手加減している。生きること、死ぬこと、そしてこの世界とは、一体どういうものなのだろうか?ほんとうの愛や、人生とはどういうものなのだろうか?そのような問いが、今でも到来する。
 




2010年、『私と踊って』を観た。
  
 会場に入った時、すでに踊りは、ずっとずっとそこにあったかのように、始まっていた。

 一人の男が、暗いステージに、後ろ向きで、椅子に座って静かな時を過ごしている。
 その視線の先の、ドアの隙間から差し込んでいる光で、かろうじてステージは明るい。ドアの向こう側では、まばゆい程白い世界の中で、何人もの男女が、手をつないで輪なって踊っては、散らばってキャーキャー騒いだり、楽しそうに遊んでいる光景が見える。男女は本当に楽しそうで、永遠にそうしているかのようだ。
 やがて、他愛もない遊びの中で、手をつないだ男女の輪の回転が、速度を増し始める。その加速が最大に高まった時、痛いほどの勢いと激しさで、そのドアが、突然バタンと閉じられる。
 一瞬、突き放されたかのように会場は真っ暗になり、間を置かずにドアのついていた壁が上昇していく・・。そして隠されていたステージの奥の白い急斜面が見え始める辺りから、黒い服を着た男達がどんどん滑り降りて来る..。

全面が明るい平坦なライトの中でシンプルな美術だけ、曲も琵琶のような弦楽器と(その場での?)歌声。
 一組のカップルの出会い、すれ違い、出会い、すれ違い、出会い、すれ違い、を中心として、たくさんの黒服の男達と、さまざまな女たちによって、いくらでも解釈が可能なアクションが行われ、展開していく。
 女性は男性を誘い、恋は成就するが、男ははじめのようには接してくれなくなり、女は男に気に入られようと、言いなりになる。もしくは女は今度は男の元を去り、多数の男と空虚に接する。男は見ていないふり、かと思えば他の女など目もくれず、無様なまでに女を探す。多数の男達は生物的なまでの微細な仕草で、替わるがわる一人の女に自分の帽子をかぶせていく。この一連のシークエンスの最後が、男たちの腕を組み、一列に並んで、(恐らく)「私と踊って」と女が歌う踊りになっている。その繰り返し。
 高い斜面の上からふわふわとした白い素材の網のようなものを落として、それで女性を捕まえたり、眠気を感じるほど静かな流れのあとに、突然二本の大樹が大きな音を立てて上から落下して来たり、力の限り女性を叩き付ける仕草や、男性が女性を大きな網で捕まえる仕草、または女性はただ寝たままで荒々しく運ばれている..など、
 この辺りは、まさしくピナ・バウシュの記事を読む際に受けるイメージそのもので、どんな言葉にしても、つまらないものになってしまう。

 しかし、このすごくつまらない、ありふれたストーリーの繰り返しの果てに、ボロボロになった女性が、疲労し、愛も若さをも失い、絶望の底まで落ちた後で、よろめきながらまた立ち上がり、勢いをつけて男たちと腕を組み、「私と踊って」と歌いながら踊り始めた時には、とても感動した。

 その時男達は、まさしくシャドウのように、全く抽象的な女の人生の奥行きになり、ひと一人が生きるというそれ自体が、圧倒的な肯定とともに、迫って来た。 
 そして最後、一人のダンサーがステージの端にまで駆けて来て、客席に向かって、「COME ON!COME ON!」と叫ぶ。それをきっかけに、すべてのダンサーが、ステージの端まで走って来て、口々に「COME( ON)!」と、両手を振り、もしくは飛び上がりながら、思い切り、客席に向かって呼びかける。
 この瞬間は、ドアが閉められ、突き放された瞬間と、リンクして、強い印象を残した。
 
 この公演を観て感じたことは、女性と男性という面が強調されていたこともあり、開放(解放)的だった「フルムーン」よりももっと個人的なレベルでだが、やはり、生きるということについてだった。

  生きる事について、生まれ、生きているのは何故かと言う事に関して、答えることの出来る人なんていない。
 人生の最後に。動けなくなって、死がすぐ近くにあることを感じる瞬間を送るとして、思い出すのは、この今ありふれたまま流れている人生の、一体どこの部分なのだろう?
 いつの、誰と一緒だった時のことなのだろう?
 その時の気持ちがどんなに辛くとも、愚かな選択を繰り返すしかなかったとしても、実際にそうやって選択し生きた一つの人生があるとして、その感情や、事実は、(かけがえのないものではないだろうか?)←*この部分が気に食わないが、上手く言えない。

 この答えさえわからないが、
 冒頭の座っている男は、追憶の中にいるように見える。そのドアの向こうのまぶしいほどの世界は、男の心の奥深くのふと開いたドアから差し込んでいる光のようだ。

 ダンサー達が私たち客席で座っている者たちに向かって、「こっちへ来なよ!」と呼びかける。
 そんな所で座っていないで、私たちと踊りましょう。人生の傍観者でいないで、本当に生きると言う事をしましょう。

 それまで私はずっと見ているだけだった。白い美しい世界には決して入り込めずに。
「私と踊って」、それは最大の挑発だ。私はそれを見たとき、嬉しくて泣きそうだった。
 
 私たちは踊りたい。踊りたくて仕方がないのだ。
(2010)

 


リアルタイムではあんまり上手く書けたと思えず、感想をここに書いてなかったので..
ただ石井先生とお話して、「私と踊って」がいいと言うのは珍しいと言われたので、書いとくべきかと思った。

とにかく感動したのは一番最後。
すべてのダンサーが客席の方まで来る、
そしてこっちに呼びかける。
これで伝わるとは到底思わないが、すごいと思った。


去年、ダンスの授業をとり、それがきっかけで舞踊評論家の石井達朗先生や、太田垣君と会って交流する機会が出来、とても幸運なことに思っている。
その授業の中で取り上げられていたダンスのグループや、ダンサー(イデビアン・クルー,黒田育世(BATIK),イリ・キリアン,大橋可也,伊藤キム etc..)や、サーカスやとにかく色々には、自然に魅力を感じた。また、梅田宏明さんも面白いと思っている。

常に気になっていて、
それを気にさせたのがピナ・バウシュのヴッパタールだったけれど、
ヴッパタールを毎回日本に呼んでくれていた団体(日本文化財団)が、こないだ無くなってしまった。

いいニュースというか、気になることもあって、それはヴェンダースの監督作品「Pina」だ。3Dという話で、ピナの死後も制作を続け、完成したらしい。ヴェンダースという、それなりに色々な分野で知名度のある人が監督してくれたので嬉しい。














そして黒田育世さんが本当に気になる。
今日、雷太さんのオープニングで踊られたらしくて超行きたかった。
こないだ石井先生にも黒田さんについて物凄い聞いてしまった。
お酒をすごく飲むし、とにかく手加減なしで無邪気で天真爛漫な方らしい。




























BATIK 花は流れて時は固まる / Flowers flow, time congeals











対称的ともいえるような
池田亮じ的空間で動く梅田宏明さん・・
サッカーをやっていたというのを読んだ。マクルーハンの言葉(これからは、メディアにより適した、サッカーの方が、野球よりも人気が出る。メディアに適するという意味は、サッカーの方がチカチカして粒的で、メディアに合うし、神経を興奮させる。)を自然に思い出す。





私はダンスは本当に重要だと思うんです。


Sunday, 27 June 2010

ピナ












公演後、ステージに落ちている葉っぱを二枚拾った。








Friday, 3 July 2009

DEAR PINA BAUSCH

http://www1.ocn.ne.jp/~ncc/
ピナ・バウシュ急逝

2009年6月30日(火)正午、ヴッパタールの入院先で死去。

今年の新作(南米チリとの共同制作)初演の楽日(最終日)、6月21日(日)には、改装されたヴッパタール・オペラ・ハウスで最後のカーテン・コールに登場していました。その後入院し、癌と診断されたわずか5日後に不帰の人となりました。

ピナ・バウシュは生命のかぎり心血をそそぎ、1968年の初振付作品「フラグメント」以降、これまでに52作品をつくりあげ、世界中の観客に体温を感じさせる、音楽とことばによるピナ・ バウシュの世界、タンツテアターを確立しました。

ピナ・バウシュは、これからも自分の作品が世界中で上演されるようにと言い残し、穏やかな表情でこの世を去りました。(日本文化財団)


今日は、映画の、父役と母役の方々との、初のミーティングでした。(決定しました。)
すごく楽しかったのですが、帰りに、渋谷の交差点の所で、メールを見ると、友達の麻衣ちゃんから、「ピナ死んじゃったの知ってる?」とメールが来ていた。

ピナ・バウシュが来日するのを、冗談じゃなく、今か今かと待っていた。
毎日何かしら、考えていたかも。
去年、初めて観て、今までの人生で観た色々な芸術の中で、一番感動したと思った。
その頃サントラが出ていなかったので、ちょっとでもあの感じを追体験したくて、ネットで調べまくって探しまくって覚えてる曲全部集めた。
ヴッパタールにもいつか行けたらと思って行き方も調べていたのに死んでしまった。
「彼女は嫌い、だけど彼女がいないと生きていけない」という、ピナのダンサー達の言葉を思い出した。
私でさえ、こんな気持ちなのだから、彼女と実際に関わった人々の様子は想像できない。
ピナ・バウシュの公演を観たのは、結局去年が最初で最後になってしまった。
自分の人生の中で、最も感動した瞬間て、パッと聞かれたら、たぶんピナ・バウシュの公演って答えるだろうと思う。
これからそれを超えられる体験に出会えるのか、わからない。
ピナ・バウシュのステージには全てがあった。
全てがあった上で、それは強く生きる方へ押し出すものだったと思う。

ピナ・バウシュ編集する全体に公開
2008年03月31日22:55
感動した。感動した・・・。

WEDNESDAY, 2 APRIL 2008
ピナ・バウシュ観て、
エンジョイ、って言う事の意味がすっとというか、ベチャッと、存在自体が溶血してそれが回復する段階ですとんとわかって来た
すでに高野さんから、遊ぶ事の重要性については聞いていたが、そして深く理解していたが、そういうアーティストが今後の世界の中で人々の絶望をなくすために、すごく重要なのは確かだけど、自分はそういうタイプの人間ではないと思っていた。
しかし今回、アーティストの目的、また絶対必要な姿勢として、一見しての色は違えどやはり究極の所はそれしかない、程度にそれを信じ込まざるを得なくなった。パレルモ・パレルモの方が、うわさでは恐らく社会の問題が含まれてて、フルムーンなんて全く政治的じゃないのに、そういう社会が良くなって行くためにはていうような事を,物凄く感じたのはやはりピナ・バウシュの根底にある態度からなのか?それとも深く衝撃を受ける時、何も出来ていない自分を通って、そういうとこへ自動的に考えが行く生物なのか?(人間)
ダンサー達は全力で踊っていた。その全力さたるや、本当に凄く、でも全力なんだけどものっすごい楽しい、そして哀しい。ピナ・バウシュのような人がいるから、凄い人は更に凄いを目指せるんだろうな  でも人間という限られた存在の中での、遊びof遊びってああいう事だと思う あの中に、私がいてもおかしくない。ていうのは、ダンサーとしてじゃなくて、世の中の一人として、おかしくないどころか ああいうのが絶対私の中にも有る。 またしても、日本の閉塞感と、日本人である事を感じた。 
あといくつかピナバウシュ見て色々を知ってからずっと考えてる事があって、一つは自然な意味での宗教でもう一つは言語で、これはピナバウシュについて皆言っていることを読んでいて、それを聞いて私も考えざるを得なくなった。というのは、ピナ・バウシュ本人が「説明の要らない表現」というように、本当に説明が要らない身体表現だったからだ。それがなんで説明が要らないのか、でもよくわからない!表象文字のような感じといったらそうだけど、でもゼッタイ物質としてない、この世にないものまでも含んだ表現で、で、それがなぜ直観的にわかるんか、よくわからない!本当に、ピナバウシュの姿勢は追求と言う感じだなあ これまでコンテンポラリーダンスや舞踏は観て来たけど、究極的には「べつに。」という感じだった。ロンドン行った時、テイト・ブリテンを別にいいやと思って観て来なかったんだけど、(今はちょっと後悔してるけど)そんな感じ。いつでも見れるしコピーも氾濫してるし、美しさも予測可能な範囲だ
 でもピナ・バウシュの舞踊は違った。
宗教については、究極的なとこ行くとゼッタイ行き着くとことしての宗教で極めて抽象的に自分の中では使ってる言葉だ。例えば、サッカーのプレーを「芸術的」というような感じで、宗教的って言葉を使ってる、芸術に芸術的って言ってもおかしいのは確かだけど、褒め言葉のステージが上がって宗教、とかって意味じゃなくて、多分なんかあるんだろうけどこれから考えようと思う




MONDAY, 31 MARCH 2008
ピナ・バウシュ
rupturedっていう感想をピナ・バウシュに送ったんだけど、ちゃんと調べたらなんか結構生々しい単語らしく大丈夫かな?と思いつつも、やはりsplitというよりはtearというよりは、rupture、という感じで(raptureが日本人としては単純に連想されてしまう事もあり)
ピナ・バウシュくらいになるには、やっぱりあのくらいの舞台が出来るんだなあと思った。
物凄く鳥肌が立ち、ゲンナリした、
物凄い才能、昔の人みたいだ、でも古代の人たちよりも確かに進んでいる
すごい簡単に言うと死にたくなった
デュラスの映画観た時も思ったけど、ヴッパタール観ながらのが本当に哀しい夢としてのリアリティがある
すごい歓喜、life explosionだったな
this is what i want!!!!!!と叫ばざるを得なかったな
Dies ist das, was ich will!!!!!!! ?
選曲も凄い「進んで」た。トムウェイツ、キャットパワー、アモン・トビンが、私には非常に意外な選曲に思えた。でもハマってたと思う
冒頭と最後のあの踊りがヤバい。
「感情そのもの」て感じがした 爆発し、わけがわからないまま躍動してぶつかり、踊り続ける わけがわからないまま 
だけど物凄いわかる、あの動き、初めて見たのに物凄くわかる、
結局、「あれって何なんだったんだろ?」って思わざるを得ないんだけど、
次には「あれ以外はなんなんだろ?」っていう瞬間が来る気がする
やっぱり世界はすごいな。。
いくらでも、いくらでも凄い人はいる
でも中でもピナ・バウシュはやっぱり凄かった。





ご冥福をお祈り致します。


Wednesday, 2 April 2008

ピナ・バウシュ観て、

エンジョイ、って言う事の意味がすっとというか、ベチャッと、存在自体が溶血してそれが回復する段階ですとんとわかって来た
すでに高野さんから、遊ぶ事の重要性については聞いていたが、そして深く理解していたが、そういうアーティストが今後の世界の中で人々の絶望をなくすために、すごく重要なのは確かだけど、自分はそういうタイプの人間ではないと思っていた。
しかし今回、アーティストの目的、また絶対必要な姿勢として、一見しての色は違えどやはり究極の所はそれしかない、程度にそれを信じ込まざるを得なくなった。パレルモ・パレルモの方が、うわさでは恐らく社会の問題が含まれてて、フルムーンなんて全く政治的じゃないのに、そういう社会が良くなって行くためにはていうような事を,物凄く感じたのはやはりピナ・バウシュの根底にある態度からなのか?それとも深く衝撃を受ける時、何も出来ていない自分を通って、そういうとこへ自動的に考えが行く生物なのか?(人間)
ダンサー達は全力で踊っていた。その全力さたるや、本当に凄く、でも全力なんだけどものっすごい楽しい、そして哀しい。ピナ・バウシュのような人がいるから、凄い人は更に凄いを目指せるんだろうな  でも人間という限られた存在の中での、遊びof遊びってああいう事だと思う あの中に、私がいてもおかしくない。ていうのは、ダンサーとしてじゃなくて、世の中の一人として、おかしくないどころか ああいうのが絶対私の中にも有る。 またしても、日本の閉塞感と、日本人である事を感じた。 
あといくつかピナバウシュ見て色々を知ってからずっと考えてる事があって、一つは自然な意味での宗教でもう一つは言語で、これはピナバウシュについて皆言っていることを読んでいて、それを聞いて私も考えざるを得なくなった。というのは、ピナ・バウシュ本人が「説明の要らない表現」というように、本当に説明が要らない身体表現だったからだ。それがなんで説明が要らないのか、でもよくわからない!表象文字のような感じといったらそうだけど、でもゼッタイ物質としてない、この世にないものまでも含んだ表現で、で、それがなぜ直観的にわかるんか、よくわからない!本当に、ピナバウシュの姿勢は追求と言う感じだなあ これまでコンテンポラリーダンスや舞踏は観て来たけど、究極的には「べつに。」という感じだった。ロンドン行った時、テイト・ブリテンを別にいいやと思って観て来なかったんだけど、(今はちょっと後悔してるけど)そんな感じ。いつでも見れるしコピーも氾濫してるし、美しさも予測可能な範囲だ
 でもピナ・バウシュの舞踊は違った。
宗教については、究極的なとこ行くとゼッタイ行き着くとことしての宗教で極めて抽象的に自分の中では使ってる言葉だ。例えば、サッカーのプレーを「芸術的」というような感じで、宗教的って言葉を使ってる、芸術に芸術的って言ってもおかしいのは確かだけど、褒め言葉のステージが上がって宗教、とかって意味じゃなくて、多分なんかあるんだろうけどこれから考えようと思う

ちょうど今、デレク・ジャーマンのヴィトゲンシュタインを観直していてそっちからも言語についてのアプローチがあった。アプローチがあると言っても、別に何か人に言うために考えだしたり、理解したりするつもりはなくて、ただ自分なりにどういう事をその事について思っているのか、何か知っているのか、何も知らないのか、何か出来そうか、全く手も足も出ないか、と言う事を確認してぼーっとみてる感じで、抽象的に宙づりにしている。(奇しくも現在、maherの「suspended season」を聴いている。)結果については、こういう風な説明の中でじゃなくて表せたらいいなって思う、


<バレエについて>
バレエについては、今年からやるけど、なんでやるのかというと、「バレエやった方がいい」と言われたからだ。
じゃなかったら自分の発想の中には全く有り得ないバレエだ。

なぜ私がやらなきゃいけないのかというと、バレエだとふざけてると怒られそうだかららしい。
笑ってごまかしたりが効かないというか、バレエだとそれやってると本気で怒られそうだからいいらしい。
日本舞踊も(そう言う意味で?)やりたかったけど、茶道も。日本舞踊はちょっと私の中にすでに要素としてありそうらしい。
バレエは全く無いらしい。それは何となくわかる(日本舞踊も本当は間違いなく全く無いんだけど。)
私も自分でも、「バレエやったら相当革命だなあ」と思う・・

<最近気になってること>
ストレッチ、マカロン、チャイ(自分でつくる。

Sunday, 3 February 2008

ほぼ1(TOKYO MX TVにて放映記録)



DSMのルーシーの日記が面白すぎで私のに比べてすごい名文だったので引用を・・
ルーシーはたぶん、いつからか私の名前をヨクナパトゥーファ(テレフォンの撮影で青い部屋に行って一番最初にケビンさんに紹介してくれた時には既にヨクナパトゥーファだったのを覚えている)だと思ってると思うんだけど、
ほんとうは・・パトーファなんだけど、
ルーシーがそう言うのなら、そっちが正しいのかも・・
というかむしろ、改名しよっかな!
と、思う,今日この頃。
DSM DARKSIDE MIRRORS

『ほぼ1という番組に出演しました


またしても私達ダークサイドミラーズの「TELEPHONE」って曲の、
PVの監督ヨクナパトゥーファがらみなんですが、
MXTVの「ほぼ1」という番組でこのPVの短縮版が
受賞してしまいました。

それで授賞式の番組の収録に行って来ました。
私達が出演してる放送分が2月8日金曜の正午まで、
ホームページでオンデマンド配信(無料フリー)で見れます。
ほぼ1(20分くらいから)

しかし、そんな事は露知らず、ほんに全く聞かされておらず、
ヨクナからある日「パーティーがあるから行かない?私は行けないけど。」と誘われ、
私達4人は
「なになに?それは豪華なご飯が山盛りなやつでは?!しかもシャンパンが飲めるとナ!?」とパーティーという言葉の響きにルンルンでした。
JUNK「ハムメロン!ハムメロン!!」
じゅんちゃんハムメロンって何?!
あ、ちなみに、私達のおばあちゃんもパーティーが大好きだったそうなのでこれは遺伝です。

そしてパーティー当日。場所はSONYの乃木坂スタジオ。
アカデミー賞の会場みたいなレッドカーペットの奥にステージがあって、
私達は花が添えられた前の方のパーティテーブルに座らされていた。
みんなが前の方を向いている。
緊張感が漂っている。
ふと見るとカメラが何台もある。
なにやらおかしい。雰囲気が思い描いていたパーティーと違う。。

「・・あれ、ご飯は!???」
あの時ケビンが言った言葉が今も忘れられない。
かわいそうなケビン。
その言葉はむなしくも会場にこだまして消えていったよ・・。
おあずけされた犬のような目で黙り込み、席に座るケビン。

そうさ、この世にシャンパンなんてないのさ!!
お前にあげる酒など一滴たりともな!!
(会場の壁から聞こえてきた声、空想)

しばらくすると、予想通り番組の収録がはじまった。

私達はグーグーのおなかを必死に押さえて、
タバコもがまんして座って
司会者のピエール滝さんと倉本美津留さんのシュールなコメントに苦笑したりしていた。
あまりに”間違えて来てしまった感”が否めないのだが、
でもカメラがたまにこっち映したりするので、ちょっと笑ったりして、(大人)
とにかく私達には関係ないと思っていた・・・・

ところが・・・!!!
あれ!!うちらのPVが流れたよ!!
短縮版なんて、こんなのはじめて見たよヨクナ!!
あれ、受賞してしまったよ!!
何にも聞いてないよ!!
あれ、壇上に上げられてしまったよ!!
私ったら寝起きで普段着より酷い格好で行ってたのに!!
お母さんに「その格好はおかしいからやめなさい」って言われたのに!!
ちゃんと言う事聞いていればよかったよ!!

・・そんなこんなで、嵐の様に過ぎ去った収録の後、
おなかグーグーのままの私達は乃木坂から六本木まで歩いて、
モスバーガーでコロッケパンを買って食べて帰りました。

次の日、ヨクナに「受賞してしまったよ!Q!」と言うと、
彼女は可愛く笑って「ちょっと知ってたけど言わない方が面白いかなと思って」
と言われました。

コワイヨー
コワイヨー

おかあさーん

いや〜さいきん現実的に、プチ怖い人が回りに多くて困ってます。

あ、HELP MEという新曲をレコーディングしています。
こんなような内容の歌です。』(by LUCY MIRROR/DARKSIDE MIRRORS)


ダークサイド・ミラーズPV "TELEPHONE"