BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Wednesday 2 April 2008

ピナ・バウシュ観て、

エンジョイ、って言う事の意味がすっとというか、ベチャッと、存在自体が溶血してそれが回復する段階ですとんとわかって来た
すでに高野さんから、遊ぶ事の重要性については聞いていたが、そして深く理解していたが、そういうアーティストが今後の世界の中で人々の絶望をなくすために、すごく重要なのは確かだけど、自分はそういうタイプの人間ではないと思っていた。
しかし今回、アーティストの目的、また絶対必要な姿勢として、一見しての色は違えどやはり究極の所はそれしかない、程度にそれを信じ込まざるを得なくなった。パレルモ・パレルモの方が、うわさでは恐らく社会の問題が含まれてて、フルムーンなんて全く政治的じゃないのに、そういう社会が良くなって行くためにはていうような事を,物凄く感じたのはやはりピナ・バウシュの根底にある態度からなのか?それとも深く衝撃を受ける時、何も出来ていない自分を通って、そういうとこへ自動的に考えが行く生物なのか?(人間)
ダンサー達は全力で踊っていた。その全力さたるや、本当に凄く、でも全力なんだけどものっすごい楽しい、そして哀しい。ピナ・バウシュのような人がいるから、凄い人は更に凄いを目指せるんだろうな  でも人間という限られた存在の中での、遊びof遊びってああいう事だと思う あの中に、私がいてもおかしくない。ていうのは、ダンサーとしてじゃなくて、世の中の一人として、おかしくないどころか ああいうのが絶対私の中にも有る。 またしても、日本の閉塞感と、日本人である事を感じた。 
あといくつかピナバウシュ見て色々を知ってからずっと考えてる事があって、一つは自然な意味での宗教でもう一つは言語で、これはピナバウシュについて皆言っていることを読んでいて、それを聞いて私も考えざるを得なくなった。というのは、ピナ・バウシュ本人が「説明の要らない表現」というように、本当に説明が要らない身体表現だったからだ。それがなんで説明が要らないのか、でもよくわからない!表象文字のような感じといったらそうだけど、でもゼッタイ物質としてない、この世にないものまでも含んだ表現で、で、それがなぜ直観的にわかるんか、よくわからない!本当に、ピナバウシュの姿勢は追求と言う感じだなあ これまでコンテンポラリーダンスや舞踏は観て来たけど、究極的には「べつに。」という感じだった。ロンドン行った時、テイト・ブリテンを別にいいやと思って観て来なかったんだけど、(今はちょっと後悔してるけど)そんな感じ。いつでも見れるしコピーも氾濫してるし、美しさも予測可能な範囲だ
 でもピナ・バウシュの舞踊は違った。
宗教については、究極的なとこ行くとゼッタイ行き着くとことしての宗教で極めて抽象的に自分の中では使ってる言葉だ。例えば、サッカーのプレーを「芸術的」というような感じで、宗教的って言葉を使ってる、芸術に芸術的って言ってもおかしいのは確かだけど、褒め言葉のステージが上がって宗教、とかって意味じゃなくて、多分なんかあるんだろうけどこれから考えようと思う

ちょうど今、デレク・ジャーマンのヴィトゲンシュタインを観直していてそっちからも言語についてのアプローチがあった。アプローチがあると言っても、別に何か人に言うために考えだしたり、理解したりするつもりはなくて、ただ自分なりにどういう事をその事について思っているのか、何か知っているのか、何も知らないのか、何か出来そうか、全く手も足も出ないか、と言う事を確認してぼーっとみてる感じで、抽象的に宙づりにしている。(奇しくも現在、maherの「suspended season」を聴いている。)結果については、こういう風な説明の中でじゃなくて表せたらいいなって思う、


<バレエについて>
バレエについては、今年からやるけど、なんでやるのかというと、「バレエやった方がいい」と言われたからだ。
じゃなかったら自分の発想の中には全く有り得ないバレエだ。

なぜ私がやらなきゃいけないのかというと、バレエだとふざけてると怒られそうだかららしい。
笑ってごまかしたりが効かないというか、バレエだとそれやってると本気で怒られそうだからいいらしい。
日本舞踊も(そう言う意味で?)やりたかったけど、茶道も。日本舞踊はちょっと私の中にすでに要素としてありそうらしい。
バレエは全く無いらしい。それは何となくわかる(日本舞踊も本当は間違いなく全く無いんだけど。)
私も自分でも、「バレエやったら相当革命だなあ」と思う・・

<最近気になってること>
ストレッチ、マカロン、チャイ(自分でつくる。

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