凄い人を見つけた。 私は元々不勉強なのもあるけど、有名な人なのだと思う。
最初、読む場所を間違え、二十年代の作家かと思い、
個人的に、二十年代で見つかるというのはすごく意外だった。
でもその後、二十年代後半に生まれたのだという事がわかり、
実際に制作したのは、その映画は、やはり六十年代くらいだったのではと思う。これは物凄いガッカリだった。
二十年代のことが想像出来なくて、「人間の新鮮さ」「鋭い実験精神」みたいなものが、この、
もう映画に満足した上で全て捨てている「軽やかさ」 「冷たさ」「覚醒」「潔さ」が、映画のできたての二十年代で既にあったのだと思うと、驚いたし、(逆に今はほとんどが映画にしがみついて、または安住している ように私には見える。)
一応実験映画作家ということになるのだろうけど、実験映画とか関係ない、実験ではない、映画の本質をそのまま表していた。(*映画の本質とは何なのか・・・)
ラング、ムルナウ、無声映画に対する憧れは、確かにあるけど、無声映画一般に対して私はあんまり反応できるタイプではない。トゥーマッチな厚さ線のヘヴィさを感じるのあるし、声が好きというのもある
でもこの映画には、音の有る無しには言われるまで気づかなかった。
そもそも、私達は現実的に過ごしている時、音があるか無いか、あまり意識的ではないと思う。
呼びかけられる瞬間がある。
空気感・・
「臨 日常感」がある これは臨場感なのだが、はらはらドキドキとかでわかりやすくあらわれる臨場感ではなくて、
ふっと真空状態や、世界の裂け目にはまってしまうような感じで、
一見、日常とは正反対の感覚に思えるが、私には日常としか言えない。
忘れられない映画がある。コーシャ・フェレンツの映画だ。
コミュニティを作ったのに誰も入らず、消えてしまった。
コーシャ・フェレンツについて、「それ程記憶にない」と皆言う。
皆、トリュフォーとゴダールの処女作に興味があるのだ。
だがこの、カンヌでグランプリもとったこともある映画監督の映画は、
一つしか観る機会がないけど今まで観た映画の中で最も美しいと思う。
コーシャ・フェレンツの映画にも余りにも哀しく退屈な日常感があった。
退屈と言ったが、わかりやすい退屈ではない。退屈な長回しとか起伏のないストーリーとか、そういうのではない。
子供の頃夜早く眠りにつかざるを得ないような退屈さだ
鍵っ子で、誰もいないガランとした家で夏休みをずっと過ごす時に感じるような退屈さだ
私はコーシャ・フェレンツを偉い人に評価というか、色々言ってもらいたいと思う。
評価しやすい監督でないのは確かだ。
出る人数の少ない冷めたフェリーニ、とでもいう感じなので。
最近観ていないので印象が変わっているかもしれない。今日また観に行こうと思う。
出来れば自分で上映会とかもそのうちしたい(自分がまずは観たい)けれど、
ハンガリー語はけっこうかかりそうだなと思う
出来れば自分で上映会とかもそのうちしたい(自分がまずは観たい)けれど、
ハンガリー語はけっこうかかりそうだなと思う
具体的にこの、最初に言った映画作家のどこが好きだったのか・・・
とにかく構図・・
構図がそのまま自分に直角に機能してくるような神経質。
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