ニューロンも、ニューロンのある脳も、脳を持つ人間も、その本質と根本からして間違っている。
人間の作った物事もすべて、どうでもいいものである。
何もかもが、「現実的に、冷静に考えて」、偽物、認識されないゴミである。
人間は食べる為に生きている。食べるためにお金が必要で、その為に働いている。
また、適当な「おしゃべり」で、この人生をやり過ごす。
フォークナーの、最も恐ろしい物語だと自ら言った、「サンクチュアリ」。
その恐ろしさは、ハイデガーの言う意味での「おしゃべり」の無い人間にとって、生とは、ということなのではないだろうか?
私には基本的に、
前にバイトで一緒だったカトリックの子が、イエスさまを信じている人たちって基本的にすごくポジティブなのよ、(この語尾では無かったと思うけど感じ的に。)
と言っていたんだけど、それと同じような、根底的な感じで、
この、全部、今あるものは虚像っていうか、全然嘘であるっていう、
絶対的な確信があるし、(ネガティブ、ポジティブの関連の意味ではなく、「それが知・・の根幹である」、という意味で)
快楽も含めて、この世の全ては苦しみであるってのが、一番正しいと思う。
だけど同様に、多幸感に溢れた発想ではあるが、
その、何もかもが平等に無意味な世界の中で、
芸術が最も実用的に作用する、と考えている。
つまり、芸術は無意味と考えられているが、具体的、実用的に、五感の次の感覚、霊感とかそういう意味ではない、六番目の感覚に、最終的になるんじゃないかとずっと思っている。
記憶、歴史、ではなく、哀悼、芸術、というストリームが、今使える言葉で言うのなら、愛が一番近いニュアンスなのだが、共感、テレパシー、になり、虚像であったすべての「在る」ものたちが、時間が、一つの塊になり、第六感になる。
その第六感については、どういうものか、私は想像できない。ただ、太陽の刺激によって目が生まれた、というような形で、愛があるから、その感覚が生まれる、というのは、(間違っても、「優しい心」とかそういう意味で私は言ってるのではない)有り得ないことではないと思う。
それで人間がどうでも良くなくなるのかどうかという問題については良くわからない。
でもその時はもう人間じゃないのだと思う。
第六感があるから、全く違う、魚類くらいからまた進化が始まるんじゃないかって思う
←ほんとに進化論が正しいとすればの話で
前に話したのは、もう進化は訪れない、
人間は、人間以上のものになれなかった者達の群で、猿が人間にならないように、(この序列的な表現を便宜上するというなら)、人間の上にもっと全然いるんだろうねって
しかしやっぱり、この生というのは、やっぱり全部、過去なんだと思う
だからこそ、映画にひかれるってのはある。
だって、なんで、死があるのかっていうのは、やっぱり生が、時間と共に過ぎて行くから、現実とか現在とかそういう意識があるんであって・・
全部過去なんだと思う ふつうに。
だからって何もやらないのか、やるのかと言えば、遊べばいいと思う。
ピナバウシュがだからやはり一番正しい。
ホモルーデンスが一番正しい。ホイジンガが。
人間は、遊ぶしかない。
全部遊びなのだと思う。思うというか、冷静に考えてそうだ。
大体において、食べて、寝て、交尾して、生殖するのが本質なんだから、
それしかないだろと思う
そしてやはりそれについて考えるのは切ない。
ピナバウシュにはだから引き裂かれる
1 comment:
now I stay in touch..
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