Sunday, 20 December 2009
Wednesday, 25 November 2009
ネリーに似ている
うちに来る、エホバの商人の方、Tさん、nelly sachsに似ている。
nelly sachsは好きな詩人だ。とても美しく、恐ろしい詩を書く。人間離れしている。去年、ツェランの詩集の隣に見つけた。
ツェランと親交があったという。知らなかったが、ノーベル賞もとっている。1966年にシュムエル・アグノンと共にノーベル文学賞を受賞したとき、彼女は、アグノンがイスラエルを表し「私はユダヤ人達の悲劇を表す。」と語った。
字が尖っている。『ペンは心臓の揺れを記録する地震計の針』というカフカの言葉を思い出させるようなネリー・ザックスの字、と巻頭に書かれている。
信仰は実際、自分には無理だと思う。世界の終わりが恐らく、怖いけど、本質的には怖くないのだ。
ただ、まるで聖書に出て来る天使のように、家に訪ねて来て、聖書を音読し、Tさんと話すのは興味深い。
Tさんは「もうすぐ世界が終わるので」と、私が世界の終わりについて考えている時に言って来た。
その時田代さんとskypeで、「エホバの人たちは何十年も前からずっとそのことを言っている」と話したのを覚えている。
絶縁体には成れない。しかしアースにも成れない。
ただ、刑事が聞き込みを必ず二人で行うように、天使が二人で来るように、玄関にTさんが現れるのは、そして毎週、私に(ずっと家にいないので手紙をくれる。)「○○の部分を」と言って、聖書を指定してくれるのは、TさんがNelly Sachsに似ている事も有り、面白いのだ。
Tさんがどういう人か、動機か、良く知らないけれども、純粋な信仰、陰謀の無い布教、それ自体は素晴らしいと思う。
しかしこの、自分も含めたシチュエーション全体が好きなので、私はついに「当事者意識」には成れないのだろう 小さな人間である以上、当事者であるには違いないが、こう言った場合。大抵の宗教指導者は全く尊敬する気になれない 法然の弟子親鸞は、浄土真宗。 一遍は時宗 栄西は臨済。「人が集まると必ずお寺さんの話になる」
私はエディパであり、ピンチョンでもある・・ ピンチョンは男性らしいから、エディパに対しては私よりは移入はしないとは思う
ピンチョンも、何処が好きなのかと言ったら、第一には無政府主義的(的。)な所が好きなのだと思う。
何にも価値を置かない、上も下もない、つながる謎めいた言葉、「何か,大きな意味があるのかもしれない。」 啓示は何処にでも現れる。
最高の冒険の感覚と、すべては空虚な遊びに過ぎない自覚
私が何をスべきか?
Tさんは聖書を神の言葉であって、人間の言葉ではないと会う度私に言う。
それにしては書かれてる事が自分を無視していると、私は単純に感じるのだとは思う。
マルケスやクレジオに入り込めないのも、物語の中で「良い」とされている前提が自分には良くないからだろう 期待が出来ないんだ。
デュラスやピンチョンや埴谷雄高は思いも寄らない所へ連れて行ってくれる。そして残酷なまでに知的で、何にも価値を置いていない。そして謎は可視で底なしだ。
と自分は感じる
単に・・・・・・・ ユーモアとタイミングの問題だ。クレジオが「マムのこの話を思い出す度笑ってしまう」と言う時に差し出される話に(今は)笑える感じがしないとか。
自分が寒い山と牧場の中で育ったとか。正反対だ。
Thursday, 24 September 2009
about_htrk
HTRKのレビューには否応無しにドラッグのムードが漂ってくるけど、それは健全な表現に意訳した。kholeとか・・・。
------------------------------------REVIEWS--------------------------------------
About Nostalgia
'..我々が知ることになったこれらを、“魅力的な『新しい』アンダーグラウンド ''と呼ぼう’
(20jazzfunkgreats)
''ダウンタウンのベースラインと、バレットタイムの中の反響するビートの不穏な結託.
音を例えるなら・・・モーテルの部屋、雨の中のタイヤの跡の曲線、そして一つのアリバイ.''
(Plan B)
“メルボルン経由ベルリンからの、人目を忍ぶセクシーな深いベースと、ゴシックな滴りと共に脈打つシンセサイザー。
ビリー・ホリディを殺した“shit”(薬物)の上のThe Kills。”
(NME)
SwansとMazzy Starの音楽的な集団自殺- PLAY LOUDER
“必要不可欠な体験。”- NEW NOISE
非の打ち所がなく、クール。 - SKINNY
About Marry Me Tonight
-----------快感への、キャッチーさへの、幸福や楽しさ、空間や光へのアレルギー。それは例えば彼らの故郷のヒーローであるJETのような、粗野な趨勢への嫌悪の仕草に形どられている。
彼らのデビューアルバムは自殺的漆黒で、際限のない想起とフラッシュバック体験のサウンドトラックであり、かつ、なんて事だろう、それはたまらなくセクシーだ。
Emily Mackay
−NME - 8/10
-----------陰鬱なペースで、耳をつんざくようなボリュームで演奏される、引っ切りなしに生まれる、極端な、深い, 溝を引っ掻くようなリフ、
HTRKは、途方もなく官能的であることと、聴く者自身を無価値にし、感情や意欲の根源と離れさせることの間で不安定に動いている。 Bela Todd
−TIME OUT - 4/6
---Marry Me Tonightはとても特定的な、あえて言うなら、狭窄な審美眼を持ったアルバムだ。しかしながらHTRKは選ばれた美学の支配者たちとなり、アルバムの37分を通して、無慈悲にそれを駆り立てる。その終着は催眠術にかけられたように魅惑的だ。Adrian Elmer
-−CYCLIC DEFROST
合成や人形や動物たちなど、また改めて出て来た様々なアイディアに囲まれながら、映画がコマ送りに進んでおります。
Sunday, 16 August 2009
HTRK/Look Down the Line
私はHTRKがとても好きです。 音楽: HTRK私はほら、HTRKの歌のDownがあるビデオを線(アルバムからの郷愁)にしました。展示: yokna patofaヨクナ・パトーファおそらく「少年肉の人魚血液」という私のフィルムのI中古のイメージ、あなたが、これが美しいと思うと考えます。
おそらく、私はよく感銘を与えることができませんでした。 しかし、私は、諸点が美しいと思いました。 私は再びビデオを作るつもりです。
「私は、今、フィルムを」 RPZLにしています。」 それで、私は長い間、どんなビデオも作ることができませんでした。 ほとんど、フィルムの生産はとても基本的な事務的な作業であり、それはそれ自体で「フィルムを作ります」から遠いです。 これは私にとって、不満な状況でした。 私がサイド作品の1つとしてのこのビデオをImpulsivelyにして しかし、私は怠惰なnow.Orではありません。RPZL生産に取り組むのに、むしろ私は忙しかったです。それはこの現象に似ています。 「明日の試験のために研究するべきである夜、突然、あなたは、部屋を掃除したくなります。」 とにかく、私はHTRKがとても好きです。 そして、いつか、それらのビデオを作りたいと思います。
Friday, 3 July 2009
DEAR PINA BAUSCH
http://www1.ocn.ne.jp/~ncc/
WEDNESDAY, 2 APRIL 2008
ピナ・バウシュ観て、
エンジョイ、って言う事の意味がすっとというか、ベチャッと、存在自体が溶血してそれが回復する段階ですとんとわかって来た
すでに高野さんから、遊ぶ事の重要性については聞いていたが、そして深く理解していたが、そういうアーティストが今後の世界の中で人々の絶望をなくすために、すごく重要なのは確かだけど、自分はそういうタイプの人間ではないと思っていた。
しかし今回、アーティストの目的、また絶対必要な姿勢として、一見しての色は違えどやはり究極の所はそれしかない、程度にそれを信じ込まざるを得なくなった。パレルモ・パレルモの方が、うわさでは恐らく社会の問題が含まれてて、フルムーンなんて全く政治的じゃないのに、そういう社会が良くなって行くためにはていうような事を,物凄く感じたのはやはりピナ・バウシュの根底にある態度からなのか?それとも深く衝撃を受ける時、何も出来ていない自分を通って、そういうとこへ自動的に考えが行く生物なのか?(人間)
ダンサー達は全力で踊っていた。その全力さたるや、本当に凄く、でも全力なんだけどものっすごい楽しい、そして哀しい。ピナ・バウシュのような人がいるから、凄い人は更に凄いを目指せるんだろうな でも人間という限られた存在の中での、遊びof遊びってああいう事だと思う あの中に、私がいてもおかしくない。ていうのは、ダンサーとしてじゃなくて、世の中の一人として、おかしくないどころか ああいうのが絶対私の中にも有る。 またしても、日本の閉塞感と、日本人である事を感じた。
あといくつかピナバウシュ見て色々を知ってからずっと考えてる事があって、一つは自然な意味での宗教でもう一つは言語で、これはピナバウシュについて皆言っていることを読んでいて、それを聞いて私も考えざるを得なくなった。というのは、ピナ・バウシュ本人が「説明の要らない表現」というように、本当に説明が要らない身体表現だったからだ。それがなんで説明が要らないのか、でもよくわからない!表象文字のような感じといったらそうだけど、でもゼッタイ物質としてない、この世にないものまでも含んだ表現で、で、それがなぜ直観的にわかるんか、よくわからない!本当に、ピナバウシュの姿勢は追求と言う感じだなあ これまでコンテンポラリーダンスや舞踏は観て来たけど、究極的には「べつに。」という感じだった。ロンドン行った時、テイト・ブリテンを別にいいやと思って観て来なかったんだけど、(今はちょっと後悔してるけど)そんな感じ。いつでも見れるしコピーも氾濫してるし、美しさも予測可能な範囲だ
でもピナ・バウシュの舞踊は違った。
宗教については、究極的なとこ行くとゼッタイ行き着くとことしての宗教で極めて抽象的に自分の中では使ってる言葉だ。例えば、サッカーのプレーを「芸術的」というような感じで、宗教的って言葉を使ってる、芸術に芸術的って言ってもおかしいのは確かだけど、褒め言葉のステージが上がって宗教、とかって意味じゃなくて、多分なんかあるんだろうけどこれから考えようと思う
MONDAY, 31 MARCH 2008
ピナ・バウシュ
rupturedっていう感想をピナ・バウシュに送ったんだけど、ちゃんと調べたらなんか結構生々しい単語らしく大丈夫かな?と思いつつも、やはりsplitというよりはtearというよりは、rupture、という感じで(raptureが日本人としては単純に連想されてしまう事もあり)
ピナ・バウシュくらいになるには、やっぱりあのくらいの舞台が出来るんだなあと思った。
物凄く鳥肌が立ち、ゲンナリした、
物凄い才能、昔の人みたいだ、でも古代の人たちよりも確かに進んでいる
すごい簡単に言うと死にたくなった
デュラスの映画観た時も思ったけど、ヴッパタール観ながらのが本当に哀しい夢としてのリアリティがある
すごい歓喜、life explosionだったな
this is what i want!!!!!!と叫ばざるを得なかったな
Dies ist das, was ich will!!!!!!! ?
選曲も凄い「進んで」た。トムウェイツ、キャットパワー、アモン・トビンが、私には非常に意外な選曲に思えた。でもハマってたと思う
冒頭と最後のあの踊りがヤバい。
「感情そのもの」て感じがした 爆発し、わけがわからないまま躍動してぶつかり、踊り続ける わけがわからないまま
だけど物凄いわかる、あの動き、初めて見たのに物凄くわかる、
結局、「あれって何なんだったんだろ?」って思わざるを得ないんだけど、
次には「あれ以外はなんなんだろ?」っていう瞬間が来る気がする
やっぱり世界はすごいな。。
いくらでも、いくらでも凄い人はいる
でも中でもピナ・バウシュはやっぱり凄かった。
ピナ・バウシュ急逝
2009年6月30日(火)正午、ヴッパタールの入院先で死去。
今年の新作(南米チリとの共同制作)初演の楽日(最終日)、6月21日(日)には、改装されたヴッパタール・オペラ・ハウスで最後のカーテン・コールに登場していました。その後入院し、癌と診断されたわずか5日後に不帰の人となりました。
ピナ・バウシュは生命のかぎり心血をそそぎ、1968年の初振付作品「フラグメント」以降、これまでに52作品をつくりあげ、世界中の観客に体温を感じさせる、音楽とことばによるピナ・ バウシュの世界、タンツテアターを確立しました。
ピナ・バウシュは、これからも自分の作品が世界中で上演されるようにと言い残し、穏やかな表情でこの世を去りました。(日本文化財団)
2009年6月30日(火)正午、ヴッパタールの入院先で死去。
今年の新作(南米チリとの共同制作)初演の楽日(最終日)、6月21日(日)には、改装されたヴッパタール・オペラ・ハウスで最後のカーテン・コールに登場していました。その後入院し、癌と診断されたわずか5日後に不帰の人となりました。
ピナ・バウシュは生命のかぎり心血をそそぎ、1968年の初振付作品「フラグメント」以降、これまでに52作品をつくりあげ、世界中の観客に体温を感じさせる、音楽とことばによるピナ・ バウシュの世界、タンツテアターを確立しました。
ピナ・バウシュは、これからも自分の作品が世界中で上演されるようにと言い残し、穏やかな表情でこの世を去りました。(日本文化財団)
今日は、映画の、父役と母役の方々との、初のミーティングでした。(決定しました。)
すごく楽しかったのですが、帰りに、渋谷の交差点の所で、メールを見ると、友達の麻衣ちゃんから、「ピナ死んじゃったの知ってる?」とメールが来ていた。
ピナ・バウシュが来日するのを、冗談じゃなく、今か今かと待っていた。
毎日何かしら、考えていたかも。
去年、初めて観て、今までの人生で観た色々な芸術の中で、一番感動したと思った。
その頃サントラが出ていなかったので、ちょっとでもあの感じを追体験したくて、ネットで調べまくって探しまくって覚えてる曲全部集めた。
ヴッパタールにもいつか行けたらと思って行き方も調べていたのに死んでしまった。
「彼女は嫌い、だけど彼女がいないと生きていけない」という、ピナのダンサー達の言葉を思い出した。
私でさえ、こんな気持ちなのだから、彼女と実際に関わった人々の様子は想像できない。
ピナ・バウシュの公演を観たのは、結局去年が最初で最後になってしまった。
自分の人生の中で、最も感動した瞬間て、パッと聞かれたら、たぶんピナ・バウシュの公演って答えるだろうと思う。
これからそれを超えられる体験に出会えるのか、わからない。
ピナ・バウシュのステージには全てがあった。
全てがあった上で、それは強く生きる方へ押し出すものだったと思う。
すごく楽しかったのですが、帰りに、渋谷の交差点の所で、メールを見ると、友達の麻衣ちゃんから、「ピナ死んじゃったの知ってる?」とメールが来ていた。
ピナ・バウシュが来日するのを、冗談じゃなく、今か今かと待っていた。
毎日何かしら、考えていたかも。
去年、初めて観て、今までの人生で観た色々な芸術の中で、一番感動したと思った。
その頃サントラが出ていなかったので、ちょっとでもあの感じを追体験したくて、ネットで調べまくって探しまくって覚えてる曲全部集めた。
ヴッパタールにもいつか行けたらと思って行き方も調べていたのに死んでしまった。
「彼女は嫌い、だけど彼女がいないと生きていけない」という、ピナのダンサー達の言葉を思い出した。
私でさえ、こんな気持ちなのだから、彼女と実際に関わった人々の様子は想像できない。
ピナ・バウシュの公演を観たのは、結局去年が最初で最後になってしまった。
自分の人生の中で、最も感動した瞬間て、パッと聞かれたら、たぶんピナ・バウシュの公演って答えるだろうと思う。
これからそれを超えられる体験に出会えるのか、わからない。
ピナ・バウシュのステージには全てがあった。
全てがあった上で、それは強く生きる方へ押し出すものだったと思う。
- ピナ・バウシュ編集する
- 2008年03月31日22:55
感動した。感動した・・・。
WEDNESDAY, 2 APRIL 2008
ピナ・バウシュ観て、
エンジョイ、って言う事の意味がすっとというか、ベチャッと、存在自体が溶血してそれが回復する段階ですとんとわかって来た
すでに高野さんから、遊ぶ事の重要性については聞いていたが、そして深く理解していたが、そういうアーティストが今後の世界の中で人々の絶望をなくすために、すごく重要なのは確かだけど、自分はそういうタイプの人間ではないと思っていた。
しかし今回、アーティストの目的、また絶対必要な姿勢として、一見しての色は違えどやはり究極の所はそれしかない、程度にそれを信じ込まざるを得なくなった。パレルモ・パレルモの方が、うわさでは恐らく社会の問題が含まれてて、フルムーンなんて全く政治的じゃないのに、そういう社会が良くなって行くためにはていうような事を,物凄く感じたのはやはりピナ・バウシュの根底にある態度からなのか?それとも深く衝撃を受ける時、何も出来ていない自分を通って、そういうとこへ自動的に考えが行く生物なのか?(人間)
ダンサー達は全力で踊っていた。その全力さたるや、本当に凄く、でも全力なんだけどものっすごい楽しい、そして哀しい。ピナ・バウシュのような人がいるから、凄い人は更に凄いを目指せるんだろうな でも人間という限られた存在の中での、遊びof遊びってああいう事だと思う あの中に、私がいてもおかしくない。ていうのは、ダンサーとしてじゃなくて、世の中の一人として、おかしくないどころか ああいうのが絶対私の中にも有る。 またしても、日本の閉塞感と、日本人である事を感じた。
あといくつかピナバウシュ見て色々を知ってからずっと考えてる事があって、一つは自然な意味での宗教でもう一つは言語で、これはピナバウシュについて皆言っていることを読んでいて、それを聞いて私も考えざるを得なくなった。というのは、ピナ・バウシュ本人が「説明の要らない表現」というように、本当に説明が要らない身体表現だったからだ。それがなんで説明が要らないのか、でもよくわからない!表象文字のような感じといったらそうだけど、でもゼッタイ物質としてない、この世にないものまでも含んだ表現で、で、それがなぜ直観的にわかるんか、よくわからない!本当に、ピナバウシュの姿勢は追求と言う感じだなあ これまでコンテンポラリーダンスや舞踏は観て来たけど、究極的には「べつに。」という感じだった。ロンドン行った時、テイト・ブリテンを別にいいやと思って観て来なかったんだけど、(今はちょっと後悔してるけど)そんな感じ。いつでも見れるしコピーも氾濫してるし、美しさも予測可能な範囲だ
でもピナ・バウシュの舞踊は違った。
宗教については、究極的なとこ行くとゼッタイ行き着くとことしての宗教で極めて抽象的に自分の中では使ってる言葉だ。例えば、サッカーのプレーを「芸術的」というような感じで、宗教的って言葉を使ってる、芸術に芸術的って言ってもおかしいのは確かだけど、褒め言葉のステージが上がって宗教、とかって意味じゃなくて、多分なんかあるんだろうけどこれから考えようと思う
MONDAY, 31 MARCH 2008
ピナ・バウシュ
rupturedっていう感想をピナ・バウシュに送ったんだけど、ちゃんと調べたらなんか結構生々しい単語らしく大丈夫かな?と思いつつも、やはりsplitというよりはtearというよりは、rupture、という感じで(raptureが日本人としては単純に連想されてしまう事もあり)
ピナ・バウシュくらいになるには、やっぱりあのくらいの舞台が出来るんだなあと思った。
物凄く鳥肌が立ち、ゲンナリした、
物凄い才能、昔の人みたいだ、でも古代の人たちよりも確かに進んでいる
すごい簡単に言うと死にたくなった
デュラスの映画観た時も思ったけど、ヴッパタール観ながらのが本当に哀しい夢としてのリアリティがある
すごい歓喜、life explosionだったな
this is what i want!!!!!!と叫ばざるを得なかったな
Dies ist das, was ich will!!!!!!! ?
選曲も凄い「進んで」た。トムウェイツ、キャットパワー、アモン・トビンが、私には非常に意外な選曲に思えた。でもハマってたと思う
冒頭と最後のあの踊りがヤバい。
「感情そのもの」て感じがした 爆発し、わけがわからないまま躍動してぶつかり、踊り続ける わけがわからないまま
だけど物凄いわかる、あの動き、初めて見たのに物凄くわかる、
結局、「あれって何なんだったんだろ?」って思わざるを得ないんだけど、
次には「あれ以外はなんなんだろ?」っていう瞬間が来る気がする
やっぱり世界はすごいな。。
いくらでも、いくらでも凄い人はいる
でも中でもピナ・バウシュはやっぱり凄かった。
ご冥福をお祈り致します。
Saturday, 27 June 2009
・洞穴で見つけることにする?
Friday, 13 February 2009
a love song
HTRK / Liars at Festsaal Kreuzberg 10, Nov 2007
“Love, love, love - yeah” , she sang, in a voice so disaffected it felt like an incitement. So bored, already, of a life barely lived. “Fuck, fuck, fuck - yeah,” Existential affect and disingenuous fatigue, a contrivance of youth as hollow as hope and yet strangely danceable.
Tuesday, 10 February 2009
Friday, 23 January 2009
詩人ヨーゼフ・アッティラの少年期
詩人ヨーゼフ・アッティラの少年期
原題: Ongyilkossag
製作国: ハンガリー
製作年: 1967
配給: 新日本映画社(アミューズビデオ=シネマ・キャッツ配給協力
スタッフ
監督: Kosa Ferenc コーシャ・フェレネック
撮影: Sara Sandor
字幕: 岡枝慎二 オカエダシンジ
キャスト(役名)
Stern Miklos シュテルン・ミクローシュ (Jozsef Attila)
解説
ハンガリーを代表する天才プロレタリア詩人ヨーゼフ・アッティラ(1905ー37)へのオマージュを捧げた一編。アッティラは32歳の若さで鉄道自殺を図っているが、彼の詩はその死後もハンガリー動乱、共産党の独裁政治といった暗黒時代においても、世代を越えて支持され続けた。本作品は、そのアッティラの少年時代の自殺未遂事件を軸に、彼の詩の世界の映像化に迫ろうとした、いかにも短編映画らしい試みがなされた作品といえる。幻想場面での寒々しいハンガリーの原野の光景などが見どころ。監督はコーシャ・フェレネック。
ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください
少年アッティラ(シュテルン・ミクローシュ)は今日も石炭を機関車から盗みだし、家に持ち帰って来た。途中、騎馬警官に追われたが、近所の人は心得たもので少年をうまく逃がしてくれた。ひと仕事終えた気分でアッティラが煙草をふかしていると、姉が帰って来て、彼を見つけてほっぺたをひっぱたく。彼は泣き出し、姉は部屋を出て行く。腹いせに彼は自殺しようと決め、いやな姉が近所の皆にいびられる様を想像しながら、ストーブのわきの苛性ソーダらしき粉末を飲み下す。寝入った彼は自分の死を悼んでくれる母や近所の人々の姿を思い描き、甘美な思いに浸る。やがて、苛性ソーダをアッティラが飲んだと騒ぐ姉の呼び声に近所の人が集まってくる。しかしアッティラの母が彼が飲んだものを指差させるとそれはただの小麦粉だった。騒ぎが静まり、母と2人きりになったアッティラは「僕を叱って」と頼むが、母は優しく微笑むばかりだった。
原題: Ongyilkossag
製作国: ハンガリー
製作年: 1967
配給: 新日本映画社(アミューズビデオ=シネマ・キャッツ配給協力
スタッフ
監督: Kosa Ferenc コーシャ・フェレネック
撮影: Sara Sandor
字幕: 岡枝慎二 オカエダシンジ
キャスト(役名)
Stern Miklos シュテルン・ミクローシュ (Jozsef Attila)
解説
ハンガリーを代表する天才プロレタリア詩人ヨーゼフ・アッティラ(1905ー37)へのオマージュを捧げた一編。アッティラは32歳の若さで鉄道自殺を図っているが、彼の詩はその死後もハンガリー動乱、共産党の独裁政治といった暗黒時代においても、世代を越えて支持され続けた。本作品は、そのアッティラの少年時代の自殺未遂事件を軸に、彼の詩の世界の映像化に迫ろうとした、いかにも短編映画らしい試みがなされた作品といえる。幻想場面での寒々しいハンガリーの原野の光景などが見どころ。監督はコーシャ・フェレネック。
ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください
少年アッティラ(シュテルン・ミクローシュ)は今日も石炭を機関車から盗みだし、家に持ち帰って来た。途中、騎馬警官に追われたが、近所の人は心得たもので少年をうまく逃がしてくれた。ひと仕事終えた気分でアッティラが煙草をふかしていると、姉が帰って来て、彼を見つけてほっぺたをひっぱたく。彼は泣き出し、姉は部屋を出て行く。腹いせに彼は自殺しようと決め、いやな姉が近所の皆にいびられる様を想像しながら、ストーブのわきの苛性ソーダらしき粉末を飲み下す。寝入った彼は自分の死を悼んでくれる母や近所の人々の姿を思い描き、甘美な思いに浸る。やがて、苛性ソーダをアッティラが飲んだと騒ぐ姉の呼び声に近所の人が集まってくる。しかしアッティラの母が彼が飲んだものを指差させるとそれはただの小麦粉だった。騒ぎが静まり、母と2人きりになったアッティラは「僕を叱って」と頼むが、母は優しく微笑むばかりだった。
六十年代くらいのフィルムメーカー
凄い人を見つけた。 私は元々不勉強なのもあるけど、有名な人なのだと思う。
最初、読む場所を間違え、二十年代の作家かと思い、
個人的に、二十年代で見つかるというのはすごく意外だった。
でもその後、二十年代後半に生まれたのだという事がわかり、
実際に制作したのは、その映画は、やはり六十年代くらいだったのではと思う。これは物凄いガッカリだった。
二十年代のことが想像出来なくて、「人間の新鮮さ」「鋭い実験精神」みたいなものが、この、
もう映画に満足した上で全て捨てている「軽やかさ」 「冷たさ」「覚醒」「潔さ」が、映画のできたての二十年代で既にあったのだと思うと、驚いたし、(逆に今はほとんどが映画にしがみついて、または安住している ように私には見える。)
一応実験映画作家ということになるのだろうけど、実験映画とか関係ない、実験ではない、映画の本質をそのまま表していた。(*映画の本質とは何なのか・・・)
ラング、ムルナウ、無声映画に対する憧れは、確かにあるけど、無声映画一般に対して私はあんまり反応できるタイプではない。トゥーマッチな厚さ線のヘヴィさを感じるのあるし、声が好きというのもある
でもこの映画には、音の有る無しには言われるまで気づかなかった。
そもそも、私達は現実的に過ごしている時、音があるか無いか、あまり意識的ではないと思う。
呼びかけられる瞬間がある。
空気感・・
「臨 日常感」がある これは臨場感なのだが、はらはらドキドキとかでわかりやすくあらわれる臨場感ではなくて、
ふっと真空状態や、世界の裂け目にはまってしまうような感じで、
一見、日常とは正反対の感覚に思えるが、私には日常としか言えない。
忘れられない映画がある。コーシャ・フェレンツの映画だ。
コミュニティを作ったのに誰も入らず、消えてしまった。
コーシャ・フェレンツについて、「それ程記憶にない」と皆言う。
皆、トリュフォーとゴダールの処女作に興味があるのだ。
だがこの、カンヌでグランプリもとったこともある映画監督の映画は、
一つしか観る機会がないけど今まで観た映画の中で最も美しいと思う。
コーシャ・フェレンツの映画にも余りにも哀しく退屈な日常感があった。
退屈と言ったが、わかりやすい退屈ではない。退屈な長回しとか起伏のないストーリーとか、そういうのではない。
子供の頃夜早く眠りにつかざるを得ないような退屈さだ
鍵っ子で、誰もいないガランとした家で夏休みをずっと過ごす時に感じるような退屈さだ
私はコーシャ・フェレンツを偉い人に評価というか、色々言ってもらいたいと思う。
評価しやすい監督でないのは確かだ。
出る人数の少ない冷めたフェリーニ、とでもいう感じなので。
最近観ていないので印象が変わっているかもしれない。今日また観に行こうと思う。
出来れば自分で上映会とかもそのうちしたい(自分がまずは観たい)けれど、
ハンガリー語はけっこうかかりそうだなと思う
出来れば自分で上映会とかもそのうちしたい(自分がまずは観たい)けれど、
ハンガリー語はけっこうかかりそうだなと思う
具体的にこの、最初に言った映画作家のどこが好きだったのか・・・
とにかく構図・・
構図がそのまま自分に直角に機能してくるような神経質。
Tuesday, 13 January 2009
PV完成!!!IN BROKEN ENGLISH/ TIME IS A THIEF
去年から作っていたPVがとうとう完成出来ました!
出演、協力して頂いた皆さん、ありがとう!
バンドの方にも、日本語のクレジットを含めて名前を入れてもらって、
近々アップされると思うので、ぜひそっちも見てみてください。
In Broken English/ Time is a thief
http://jp.youtube.com/watch?v=_rUy9-fj2i0&feature=channel_page
(Callie Uleners/ Gregg Anthe)
Performed by In Broken English
Directed by Yokna Patofa
Actor: Mai Nishino,Ryou Kiriakehata
Shot by: Mai Nishino, Tom Hara,Yusuke Tanabe, Yokna Patofa
Lighting:Keishi Kondo
Special thanks:Tika Fukui,Mariko Inoue,
Directed by: Yokna Patofa
出演:西野 麻衣,切明畑 遼
撮影:西野 麻衣,ハラ トム,田邊佑介,ヨクナ・パトーファ
照明:近藤 景詩
協力:福井千華、井上真理子
監督:ヨクナ・パトーファ
(c) 2008 Yokna Patofa / In Broken English. All rights reserved.
In broken English(FR) http://www.inbrokenenglish.com/
http://www.myspace.com/inbrokenenglish
yokna patofa (JP)http://space.geocities.jp/qbbhq401/
・出演者の麻衣ちゃんときりちゃんは、Disco del reyと、天国畑というバンドをやっている。
・ケイシ君とも話したのですが、このビデオは仮アップの段階から今まではない感じでいい意味でも悪い意味でも反応があり、それが面白かった。
・テーマは九十年代で、
・イメージは曲を聴き始めた当初より、ミスター・チルドレンのイノセントワールドのPVの、記憶にある箇所だった
・きちんとは使っていないお蔵入りシーンで、墓地のシーンがある
・映画館のシーンは早稲田松竹を借り切って撮影
・海のシーンは、麻衣ちゃん、ハラさん、私の三人のカメラが組み合わされている
詳しくはこっちのトピックの方に色々載っているので合わせてぜひ!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34987395&comm_id=3162358
怖くて読み返せないけどだいぶ変わってると思う。
このビデオは自分の今までの中では無防備なんだと思う。
今年は無防備=挑発、 という部分を持つのが目標
2009年は、VJも含めて大画面で上映したり、色々な人に現実的に会って話したい。
Tuesday, 6 January 2009
愛の問題、記憶の問題
愛は記憶の中に存在する、記憶は脳の、ニューロンの中に存在する。
ニューロンも、ニューロンのある脳も、脳を持つ人間も、その本質と根本からして間違っている。
人間の作った物事もすべて、どうでもいいものである。
何もかもが、「現実的に、冷静に考えて」、偽物、認識されないゴミである。
人間は食べる為に生きている。食べるためにお金が必要で、その為に働いている。
また、適当な「おしゃべり」で、この人生をやり過ごす。
フォークナーの、最も恐ろしい物語だと自ら言った、「サンクチュアリ」。
その恐ろしさは、ハイデガーの言う意味での「おしゃべり」の無い人間にとって、生とは、ということなのではないだろうか?
私には基本的に、
前にバイトで一緒だったカトリックの子が、イエスさまを信じている人たちって基本的にすごくポジティブなのよ、(この語尾では無かったと思うけど感じ的に。)
と言っていたんだけど、それと同じような、根底的な感じで、
この、全部、今あるものは虚像っていうか、全然嘘であるっていう、
絶対的な確信があるし、(ネガティブ、ポジティブの関連の意味ではなく、「それが知・・の根幹である」、という意味で)
快楽も含めて、この世の全ては苦しみであるってのが、一番正しいと思う。
だけど同様に、多幸感に溢れた発想ではあるが、
その、何もかもが平等に無意味な世界の中で、
芸術が最も実用的に作用する、と考えている。
つまり、芸術は無意味と考えられているが、具体的、実用的に、五感の次の感覚、霊感とかそういう意味ではない、六番目の感覚に、最終的になるんじゃないかとずっと思っている。
記憶、歴史、ではなく、哀悼、芸術、というストリームが、今使える言葉で言うのなら、愛が一番近いニュアンスなのだが、共感、テレパシー、になり、虚像であったすべての「在る」ものたちが、時間が、一つの塊になり、第六感になる。
その第六感については、どういうものか、私は想像できない。ただ、太陽の刺激によって目が生まれた、というような形で、愛があるから、その感覚が生まれる、というのは、(間違っても、「優しい心」とかそういう意味で私は言ってるのではない)有り得ないことではないと思う。
それで人間がどうでも良くなくなるのかどうかという問題については良くわからない。
でもその時はもう人間じゃないのだと思う。
第六感があるから、全く違う、魚類くらいからまた進化が始まるんじゃないかって思う
←ほんとに進化論が正しいとすればの話で
前に話したのは、もう進化は訪れない、
人間は、人間以上のものになれなかった者達の群で、猿が人間にならないように、(この序列的な表現を便宜上するというなら)、人間の上にもっと全然いるんだろうねって
しかしやっぱり、この生というのは、やっぱり全部、過去なんだと思う
だからこそ、映画にひかれるってのはある。
だって、なんで、死があるのかっていうのは、やっぱり生が、時間と共に過ぎて行くから、現実とか現在とかそういう意識があるんであって・・
全部過去なんだと思う ふつうに。
だからって何もやらないのか、やるのかと言えば、遊べばいいと思う。
ピナバウシュがだからやはり一番正しい。
ホモルーデンスが一番正しい。ホイジンガが。
人間は、遊ぶしかない。
全部遊びなのだと思う。思うというか、冷静に考えてそうだ。
大体において、食べて、寝て、交尾して、生殖するのが本質なんだから、
それしかないだろと思う
そしてやはりそれについて考えるのは切ない。
ピナバウシュにはだから引き裂かれる
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